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頼まれてもないのに。その6(花と三日坊主)

チューリップが好きです。特に赤いの。

ぷくりと、しかし凛と天に向かって形づくられた赤い花びらの重なりが、素朴で簡潔で、楽器でいえばカスタネットのような万人受けのわかりやすさに秘められた奥深さというか。赤と緑のクレヨンさえあれば幼児にも簡単に描けてしまうこの花を、これまでに一体何十本、何百本、画用紙に描いては置き捨ててきたものか。

今年もまた誰か心ある方が植えて育ててくれた道端のチューリップに目を留め、幼少の頃の思いも込めてnote投稿時の挿絵としてこれを描いたのが4月の半ば頃。今日は4月30日。

……はい、せっかく描いたこの挿絵を今使ってしまわないとこのまま1年お蔵入りになってしまうため「この挿絵のため」だけにテーマ差し替えです。決して本を読めていないわけではありません、ええ断じて(いつ予定していたテーマで私はnoteが書けるんだろう……)。

今回は「花」と「三日坊主」の話。

花の名前がわかりません。そりゃチューリップや桜やコスモス、このあたりは知ってます。あじさいやひまわりも一目瞭然です。それ以外の、野に咲く花々がほとんどわかりません。

そこで例年、蠟梅がかたく黄色く花をつける頃に誓います。今年こそ花の名前を調べて覚えよう、と。軽く仰いだ視線の先にさわさわと花を揺らす植木やふと目を落とした足元に小さな色を散らす草木を散歩道に見かけてはそのつど写真を撮り、帰宅してはインターネットで色だの季節だのを頼りにそれと同じ花の画像を探し出しては該当しそうな花の名を調べ当てる、という地道な作業を……今年こそ。

残念なことにこの「花の名前を覚えよう」熱、八重桜もそろそろ終わりを迎えるな……という頃には影も形もなくなっています。なんど調べて覚えようとしてもこぶしと白木蓮の違いがわからないし、椿と山茶花の見分けに自信が持てないし、ツツジとサツキ、子どもの頃よくチューチューした蜜が甘くておいしいのどっちだっけ。もうやんなっちゃう。人間なにごとも達成感というものが大事でして、どうしてこうして、年が明けるたんびに同じ地点からの出発になるの、もうやだ。

毎年毎年三日坊主(正式には三ヶ月坊主です)を繰り返した結果、導き出された仮説は、花の名前というものはどうやら座学でどうこうなるものではなく、思い出と記憶、経験の中で忘れ得ぬものになるものなのかもしれません。その中にはとりわけ「誰かとの時間、誰かとの会話」が深く根づいているのではないかしら、とも。

そう考えるとチューリップやひまわりは(学校の花壇ではありますが)自分の手で球根や種を植えて育てたことがありますし、あじさい(がくあじさいのほう。今でも私はころんとした毬状のあじさいよりもこっちが好きです)は家の近くに咲いてましたし、桜はそれこそ昼のものも夜のものも、時にお酒持参でいろんな人たちと見に行きましたもの。コスモスはその花自体に思い出があるというよりも国語の教科書に出てきた短編の影響が記憶に強く(たぶん『秋の風鈴』という小説名です)、細くはかなげなコスモスの季節がくるたび思い出します。

花の名前を多く知っている人と出会うとその人がとても豊かで情感あふれるように思えるのは、単にその人が博学だからということではなく、その人がこれまで生きてきた情景、人格形成に関わってきた素敵な人たちの面影が話の中に見え隠れして優しい和声を作りあげているからなのかもしれません。

お金をかけて見かけだけ教育格差を埋めたところで、自分の努力だけではどうにもならない「格差」というのが年を重ねれば重ねるほどふとした随所に見え隠れしているのに気がつきます。生まれ育ちが本当に豊かな人というのは、単純な貧富の差ではなく、周りの人たちがどれほど「素敵なもの」に丁寧な感性を持っていて、目の前の小さな子たちに「それぞれの人が素敵だと思うもの」をどれだけたくさん教えてくれたかどうかなんだ、ということがわかってきます。

だから、まあ、花の名前をいまさら覚えられないのも致し方あるまい、と思うことにしましょう。

でもね。よく思い直してみて。それでも私にも知ってるお花の名前がある。ちゃんとある。チューリップ、桜、コスモス、あじさい、ひまわり。数少ないけれど、絵に描こうと思えばへたくそだけど思いを込めて描けるもの、思い出について語ろうと思えば拙いながらもこうして一つの雑文には仕上がるくらいのものは持ち合わせている。素敵な人と比べて持たない自分をさみしく思うよりも、今あるものから始めればいいんです。背伸びしても、ね。

そうはいいつつも、季節が過ぎ去ってしまう前に、今年こそすみれの絵にもチャレンジしてみよう。


武者修行中です。皆様に面白く読んでいただけるような読み物をめざしてがんばります。