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たまちゃんとてつくん

日々思うこと。

それは、うちの猫が可愛すぎる。と言うこと。

この思いの丈を煩雑にどこかへぶつけたい。ツイッターじゃ文字数が少なすぎる。インスタはなんとなく気を遣う。Facebookはもってのほか。

と言うわけでなんとなーくnoteを登録してみました。

冷静に考えればブログでやればいいんだけど、実験的にnoteも使ってみたかったんです。いつまで続くかはわからない。これっきりで終わるかもしれない。改行の感じが、若干読みづらい。

続けるとしたら、主に我が家の2匹の猫について書き殴りたい。

普段は“ふたり”と書き記しているので、以後そのようにする。

ひとり目の猫は、お姉ちゃんのたまちゃん。キジトラ白の女の子。2016年生まれの5歳。かなりのしっかり者で、後述する弟・てつのお世話を、最初から手伝ってくれている。しかしふとした瞬間に、全力で甘えにきてくれるのがたまらない。

ふたり目の猫は、弟のてつくん。黒猫である。たまちゃんとの血の繋がりはない。2019年生まれの1歳。訳あって我が家に来ることになった。それは後日記事にするかもしれない。実の兄弟の、黒猫・ノワールが実家にいる。とにかくやんちゃで元気で、明るい子。根はおっとりしていて、お姉ちゃんに気を遣える優しい男出る。

ふたりの猫について書き記したところで、猫好きでない人からすれば、「猫擬人化しすぎだろワロスワロス」と言われると思う。わかっている。

しかし猫と暮らしていると、これが単純な擬人化ではなく、実際に猫たちの行動や振る舞いから、リアルであるとわかる。

感情表現が犬と比べて乏しいと言われる猫だが、一緒に暮らす人間には表情豊かな生き物であると感じるのだ。

ふたりは微妙に、私に甘えるタイミングをずらしてくる。なので私は2倍、猫と戯れることができるし、2倍悦に入ることができるのだ。その分時間も2倍かかるのだが。

群れをなして生活をしない野生の猫だが、それでも彼らなりの社会性と言うものがはっきり確立されていると言うことなのだと思う。

「今はお姉ちゃんの時間だから、僕はあとでいいや」

お互いこんな風に気を遣っているのかもしれない。じゃれる以上の喧嘩をしないし、ふたりで過ごす時間も大切にしているように見える。逆に、各々で過ごす時間も。血の繋がりのない3人暮らしだが、それぞれなりに家族を大切にしている。

猫好きの方ならここまで読んで、「お前いいな、ふたりからそんなに懐かれてんのかよ」と思うかもしれない。

そうなんです。結構好かれてます。

わかりやすいのはたまちゃん。てつがロフトに行っていて、いなかったりすると、延々とスリスリしてくれる。たまちゃんは、私の顔にスリスリしたいみたいで、ぴょんっと飛んでみたりする。ずっと喉を鳴らしている。愛おしい。ベッタベタに絵に描いたように甘えてくれる。てつくんが来る前はその頻度が多かった。根本的には猫なので、基本的には気が向いたときだけだが。お互い目に見えない信頼関係を感じる。

てつくんは主にずっと遊びたい遊びたい遊びたい!!!の年頃なので、デレデレ甘えてくれることは少ない。デレデレは主に、たまちゃんに対して。私は恐らく2番目くらい。彼にとっては私が父で、たまちゃんが母なのだろう。それでも急に撫でてスイッチが入り、30分以上撫でられ続けたりしている。お腹を出したり、喉を鳴らしたり、宙をフミフミしたり。

はっきり言って私は、ふたりから好かれていると言う絶対的な自信がある。

かつては自己肯定と言うものが一切できなかった。とにかく生きづらかった。たまちゃんがうちに来てしばらくも、ネガティブな感情に捉われて生きていた。ダメな状態を、たまちゃんは甘やかしてくれた。そしてズルズルと甘えていた。

てつくんは甘やかさない男だった。若干危なっかしく、それでいて徹底的にポジティブな彼に引っ張られた。

たまちゃんに甘えすぎていたのを申し訳なく思い、これからは恩返しのつもりで太く逞しく生きねばと思った。いや、そうせざるを得なかった。

全力で愛してくれる猫たちに応えなくてはならない。

かくして私は30歳を過ぎ、猫のため生きると言う自分の存在意義に気づいた。

なんだか宗教みたいでしょう。これが猫の魅力であり、魔力である。

誰しもが猫に救われるわけではないが、薄らぼんやりとしていても自分を肯定する動機はどこかに落ちているような気がする。

私にとって100%それが猫だっただけであろう。

こうして休日の夜中を、愛猫を眺めつつ、愛猫の文章を書くことに費やす。そしてこの後は、愛猫を眺めながら眠る。

人生これでいいと思っている。

幸せの具現化である。

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