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食べることは、生きること。

今日、パパが死んだ。もしかしたら、昨日かも知れないが、わたしには分からない。

いや、分かっている。昨日は初七日だった。
それに「パパ」なんて呼んだことは生涯ただの一度だってありゃしない。
わが家では、小さいころから「お父さん」だ。
父が逝って、あまりにも悲しみが大きすぎて、いや、悲しみだけではなく、大きな後悔と共に、望んでいなかった絶望や失望や怒りがもれなくついてきて、そうした負の感情をどうやって御したら良いのか分からずに茫然自失として過ごしている。母のときには、なんとか一人で処理できた感情が、今回は制御できずに、負の感情が漏れ出してきてどうしようもない。

母を自宅で看取った後、一人暮らしとなった父から、毎月、帰ってきてくれないかと頼まれて1年ちょっと。郷里の九州と東京をいったりきたりの生活となった。
昨年の冬、肺炎を起こしたときなど、ひと月あまり滞在して寝る間も惜しんで世話をした。睡眠時間は連日2時間ほどだったか、食欲がなくなった父に、何か食べれるものはないかと台所で試行錯誤を繰り返し、氷のように冷え切った足をマッサージし、痛みで眠れないという背中をさすり。目の下のクマはこの時、一気に濃くなり、今日まで薄くなっていない。でも、そのおかげもあって、これでさよならと自身も覚悟をしていた父は奇跡的に回復し、元気になった。

父を元気にしたのは、薬より何より、食の力だったと信じている。
チキンとネギと野菜を煮込んですんだチキンスープをとった。昆布と削り節で出汁をとった。数種類の野菜を煮込んでポタージュを作った。
お腹の調子が良くなるように小豆でぜんざいを作った。筍は、たっぷりの米糠と唐辛子と茹ででアク抜きをする。
火の力を信じて、レンチンは使わなくなった。出来立ての料理がいちばんだとアーユルベーダーの教えに従い、毎食、作るように心がけた。
店先で旬のものをみつけたら、迷わずに買って帰った。
ベッドの父に「今日、ヤングコーンが出てたよ! 炒める? 茹でる? それとも揚げる?」 尋ねると、父は、しばし嬉しそうな顔で考える。その時間が好きだった。
手間を惜しまない。それがわたしにできる唯一のことだった。

若い時は、凝った料理、濃い味の料理を好んでいた父も、晩年はめっきりシンプルな料理を好むようになり、できあいの料理に使われる添加物を嫌うようになった。濃い味だったのが、驚くほど薄味になった。
旬の野菜を使った副菜、例えばキュウリを塩で揉んで、食べやすく蛇腹に切って胡麻をふりかけたものや、ナスを塩もみして水気を軽く絞ったもの、キャベツを炒めて軽く酒蒸しし、塩で味つけたものなどを好むようになった。元気な頃の父を知っているだけに、その変化は驚かされるものがあった。お吸い物に加える塩の分量に敏感になった。どれくらいの塩味をおいしいと思うのか、毎食、微調整をしながら塩梅を測っていった。そんなことの繰り返しで、父の「美味しいなあ」という言葉をもらえるようになった。

前回帰省したときは、リクエストされてチャンポンを作った。
「本当に美味しかったんじゃ。だから、もっと食べたかったんや。そうやけど食べれんかった」。
父は、思ったほどチャンポンを食べられなかったことを悔やんでいた。
「そりゃ美味しいよ。わたしが作ってんだよ。スープも一から作ってるからね。イカも、シジミもヤングコーンも、とうもろこしも、缶詰じゃないのを使ってるんだよ」
わたしの言葉に父は「そうじゃあ、本当に美味しかったんじゃ。もっと食べたかったんじゃ」と悔しそうに言うものだから、次の帰省のときにまた作ってあげようと思っていたのに、その機会は二度と来ないのだ。

最後、父が口にしたのは、お吸い物のゼリー寄せ、野菜の冷製ポタージュ、桃のシャーベット。
発話はできなかったけれど、もう一口食べる?と尋ねると、しっかり頷いた。ポタージュを口に入れた途端、父の修行僧の如く薄くなったお腹が鳴った。こんなにも、父のからだは食べ物を欲していたのに、と思うと切なくなった。悔しくなった。
意識が戻ったときのためにと、毎食土鍋で炊いていたお粥も、チキンスープを出汁代わりにした茶碗蒸しも口にすることないまま父は逝った。

悲しみが消えるまで、胸に渦巻いた負の感情も薄くなって消えてしまうまで、もう少し時間が必要だと思う。
どれだけ悲しみに飲み込まれても、それでも、わたしは今日も台所に立つ。

これは美味しいわ。お店を出せるわ。美味しそうに食べてくれた母。
料理が上手やのうと、褒めてくれた父。
二人とももういないけれど、わたしは今日も、台所に立つ。

わたしは、料理を作る。自分のため、家族のため。
食べることは生きること。そう、食べることは生きることだから。

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