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ルシファーとアーリマンの間

最近シュタイナーのキリスト論集を読んでいます。用語が難しいし、ほかの著作と相関しているので読書家ではない私には難解な本です。
でも、シュタイナーが読み解いているキリスト像は宇宙的で、でも身近に感じられて、凄く面白いです。
難しいけれど、難しいから面白くてハマります。
こういう見方ができるんだ!とかこういう読み解き方ができるんだ!と読むたびに新しい発見、新しい気付きが合ってシュタイナーは本当にすごいなぁ!!と思います。

私はキリスト教に関してそんなに良く知らないのですが、有名な荒れ野の誘惑については色々と思うところがあります。

洗礼の後イエスは、「荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受け」この従順に対する挑戦を受けた(ルカ4章1~2節)というのが「荒れ野の誘惑」です。

この時にイエスが受けた誘惑の一つ目はパンの誘惑。
40日の間何も食べないで空腹の時、悪魔はイエスに言います。
『神の子なら、この石にパンになるようにと命じたらどうだ』。救い主の力は自分のためにではなく世の人々を救うために与えられているのですが、悪魔は力を自分の空腹を満たすために使わせることで、神に背くように仕向けました。
それを見破ったイエスは「人はパンだけで生きるものではない」と、旧約聖書のことばを使って答え、救い主として与えられた力を乱用せず神に従う態度を固持しました。

二つ目の誘惑は世界の支配者への誘惑
悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せます。そして、悪魔は「この国々一切の権力と繁栄を与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることが出来るからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」と言います。

人間の支配欲は強烈です、権力を手に入れ富と力ですべてを支配できるのなら、どんな犠牲でも払うようにけしかけてきます。悪魔は「もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる」と言います。(ルカ4章5~7節)「どんな苦労も労働もいらない、ただわたし(悪魔)を拝めばよいのだ」と囁くのです。

イエスにとって神がすべてです。たとえ全世界を手に入れても神に背くことはできないのです。イエスは力強く「あなたの神である主を拝み『ただ主に仕えよ』と書いてある」(ルカ4章8節)と、旧約聖書のことばを引用して答え悪魔を退けます。

三つ目の誘惑は信仰に対する不信への誘惑
悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言います。
「神の子ならここから飛び下りたらどうだ。『神はあなたのために天使たちに命じてあなたをしっかり守らせる』また『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』聖書にこう書いてあるからだ」
「危険かもしれないが、天使が守ってくれるから、人目をひく行動でメシアだということを宣伝すればよい」と聖書にあることばを引用してそれを実証するように唆します。

イエスを臆病者と揶揄しつつ、神への信仰心を試すように巧妙に誘導しています。悪魔は狡猾ですね。

神がイエスのために用意したメシアの道は受難と十字架の道でした。
そのためイエスは「あなたの神である主を試してはならない」と答えます。イエスに挑戦して敗れた悪魔は「時が来るまでイエスを離れた」とあります(ルカ4章9~13節参照) 

シュタイナーの解釈を参考にすると、この荒れ地の誘惑では2つのタイプの悪魔が登場しています。
一つ目は慢心や傲慢を喚起して人のこころを巧妙に操るルシファー、そしてもう一つは恐怖心や不安をあおり人のこころを支配するアーリマンです。

ルシファーとアーリマンはイエスの信仰心を挫くため、お互いに協力して支配欲や神への不信、恐怖心を煽り誘惑をします。
荒れ野の誘惑エピソードに触れると、いつも「これは聖書の中の出来事、過去のことではなくて、今現在も日々私が感じていることなのではないか?」と思います。
それは、私がいつも自分の中に持っている慢心や傲慢を感じることがあったり、恐怖心や不安、不信にこころが奪われる体験をしているからです。

ルシファーとアーリマンは堕天使や悪魔の姿として存在するのではなく、人として生きる私のこころの中にいて、常に誘惑をしているのだと思います。
そして、それは私のこころの中だけでなく、おそらくどの人のこころの中にもあるものだと思います。

聖書に書かれている荒れ野の誘惑はイエスが経験した出来事ではなく、人が生きることは常に自分の中にある欲望の誘惑と向き合いながら、それでも、中庸を維持する事の大切さを現わしている象徴なのだと思います。

ルシファーの誘惑に乗ってしまうと、たちまちに自分を過信して尊大な態度や行動をとる事になってしまうと思います。
アーリマンの誘惑に乗ってしまうと、誰も何も信じられず、孤独や恐怖に呑み込まれ排他的になっていくのだと思います。
なんとなく躁状態がルシファーっぽくて、鬱状態がアーリマン?みたいに感じました。

ハイテンションでやりすぎてしまう躁とテンション低く何もしなくなって自分の殻に閉じこもる鬱。その間のニュートラルを保つのが大事なのだと思いました。

私は星を読んだり、ヒプノセラピーをしたりしますが、その時に、ルシファー的になってもダメだし、アーリマンになってもいけなくて、ニュートラルに中庸の位置にいて星やヒプノと向き合わうことが必要なのだと思います。
過信もいけないのだけれど、自分を卑下しすぎることもいけなくて、背伸びしないし猫背にもならず背骨をまっすぐにしていないと「これくらいなら大丈夫」みたいに油断して隙を見せるとどちらかに取り込まれてしまうから気を付けなくちゃ!と改めて思いました。

とはいえ、毎日何度もルシファーやアーリマンの誘惑に乗って中庸でいられない、欲望や不安に駆られやられっぱなしです。
でも、「私は誘惑に乗らず中庸です」って出来てないのに、中庸だと思ってしまうよりは良いかな。
素直に負けを認め、新たに中庸を目指して模索するのが私なのだと思います。