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【アート思考】論理の限界を突破②自分らしい作品って何
「アート思考」とは何なのか?と、前回ご紹介しました。↓
書籍の中では、また別の視点からの「すばらしい作品」について言及しています。
「再現」の目的が果たされれば精巧に作る必要はない
20世紀初頭にカメラが普及するまでは、生き写しのように本物そっくりに「再現」することが正義・ゴールという価値観でした。
しかし、それよりも前の19世紀、タヒチで出土した「オロ」をご覧ください。
「オロ」とは、ポリネシア人の神様です。信仰の対象である神様にしては・・・あまりにも幼稚で簡素的な作りですね。
一方、ミケランジェロのピエタをご覧ください。イエスキリストを表現しています。
オロとは真逆で、精巧で緻密な作品になっていますね。
先程の「オロ」が幼稚な理由は、ポリネシア人に技術がなかったからでしょうか?素晴らしい作品とは、こちらのピエタのことを言うのでしょうか?
実は、決してそうじゃないのです。
神様のオロがどんな姿形であれ、これは「オロ」だという概念が達成されれば、その精巧さは不要なのです。精巧さなどなくても、素晴らしい作品になるのです。
本書ではここまで言及されてました。
この話をちょっと分解して、そうなった理由を考えてみたいと思います。
自分らしい作品をつくりやすい条件
仮説①再現したいものの具体的なイメージがないとき
ミケランジェロがピエタを制作した時点で、すでにイエスキリストの具体的な造形、イメージが確立してたはずです。そうするとどうしても花職人になりやすく、技術的にも精巧に作りたくなる。
一方、オロの場合は、オロという神様の概念はあったけど、その具体的なイメージはまだ確立されていなかった。だからこそ、思いつくままに手を動かせたし、自分らしい表現ができたのでは?と思いました。
仮説②制作時点で、作りたいものが決まってないとき
さらに言うと、この「オロ」を作った人は、最初から「オロ」を作ろうとしていまのかな?と勘ぐってしまいました。
子どものように、思いつくままに手を動かして何らかの作品を作った。その後付けで、「これは神様だ!名前はオロにしよう!」と概念と名前を植えた可能性もあると思いました。(下図、オレンジ部分)
実際、子どもがなんらかの作品を作っている時、再現したいものが決まっている時と、決まっていない時があります。そんな時、自分らしさを表現しやすいのは後者だと思うのです。
子どもが作ってくる作品を見ると、再現したいものの有無の違いはすぐにわかります。びっくりするくらい、見たこともない姿形の作品なので!
で、
「これ、何を作ったの?」
と聞くと、その時になって初めて
「うーんとね・・・。」
と、概念を考えて、
「センタイビー玉!」
とかよくわからない定義をつけてくれます。
この流れこそ、実は当時の「オロ」だったのでは?と思いました。
思いつくままに手を動かす子どもの思考を見習おう
ゴリゴリの固定観念に引っ張られないように、まずは思いつくままに手を動かして何かを作ってみたら、それこそ「自分らしい作品」になるのではないでしょうか。
それが何を表現しているのか、それは作りながら考えてもよいと思うのです。理論やデータに基づいていない、自分らしい思考で作る作品。これこそ、アート思考の第一歩なのかなと思いました。
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