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今週の日記#18

『住宅街で突然聞こえてくるおじさんの大きいくしゃみ』の源の人間を見ることができて、なんかラッキーだなと思った。
そのおじさんは車道の反対側におり、1メートルくらいある木の枝を引きずりながら歩いて、家に入っていって消えた。

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『世界ふれあい街歩き』、子どもの頃はこれくらい純粋に世界を見ていたよな〜と思う。街の人は好意的に話しかけてくれるし、みんな優しいし、すべてのものが美味しそう。絵本のなかの世界みたいだ。
いつか海外旅行に行ってみたい。日本語以外喋れない、パスポートも持っていない私にとっては夢のような話だけれど。

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LINEスタンプでよくある「向かってます」ってやつ、使ったことない。用途どこ……?
到着を催促されているのであれば、メッセージで真摯に返信すべきではないだろうか。いや、メッセージを打っていられないくらい焦っている状況だからスタンプでポンと送ろう、ということなのか?だとしたらなぜ「向かってます」というキャラクターたちはみんな笑顔なのか。
そう考えると、常用しているスタンプは持っているスタンプのだいたい5分の1程度にすぎないような気がする。大好きなアニメである『ゴールデンカムイ』の第2弾スタンプは使いやすいかなと思って購入したけれど、リパさんの「ありがとう」を使ったり、白石がハートマークしてるスタンプを会話の終わりにそっと送るくらい。杉元の「うぇへへ〜い」とかいつ送るんだよ。

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最近、「そういえばこんなこともあったな」と昔の出来事を急に思い出すことが多い。面白い短期バイトをしたことだとか、幼稚園時代のエピソードとか。逆に言えば、自分の奥底に眠る記憶の量が子どもの頃よりずっと増えたということだろう。
考えて、ちょっとだけ怖くなった。自分のことなのに知らないことや、覚えていない記憶が増えてきている。

私が大好きなこの記事のように、主観的に見ていた記憶と客観的な事実では相違が発生することもある。
が、写真などの客観的事実の残らない日常の些細な事柄についてで言うと、「この世にその出来事が存在した」という裏付けをするためには主観的な記憶しか頼れなくなってしまう。つまりは、自分の人生が豊かになり記憶がどんどん増えていって、無意識に取捨選択され捨てる側となった出来事の主観的な記憶が無くなったと同時に「この世にその出来事が存在した」という事実さえ消えてしまうのではないだろうか。
私が今まで生きてきた期間、それも自我が存在していたかあやしい幼少期をも含めての21年、そんな短いあいだでさえ忘れてしまう記憶もあるんだと思うと、これから年を重ねていくのが少し怖くなった。
幼少期によく遊んだ友達の名前ももう思い出せない。小学校の出席番号は何番だっただろう。課外学習であの場所に行ったのはいつの出来事だったっけ。

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私は友達が少ない方なので、飲みに行ったり遊びに行ったりすることも滅多となく、月に1回あるかないか程度。
今日はその貴重な飲み会の日だった。飲み会は非常に楽しかったのだけれど、帰宅後にやれやれとお風呂に入って布団にもぐってみたら、体が疲れて重〜いかんじ。ちょっと憂鬱になる。明日の朝は起きづらいだろうな。背中がじわじわと痛いし、目は乾燥してパシパシしている。全身がバターみたいに溶けていきそうなくらいの熱を発している。疲れすぎて眠れない。
友達が多くて毎日のように遊び回っているような人たちは、この感覚が毎晩あるのだろうか。それとも、もう慣れっこで、すぐに寝てしまうのかな。
そうなりたい気もするし、今のペースがちょうどいいと思う気持ちもある。
帰り際の「また遊ぼうね」がいつになるのやら、「早いうちにね」「時間があるうちに」とは言ったものの自分から誘う気もないくせに適度な間隔をあけて誘ってくれたら嬉しいなと思ってしまった自分に反省しつつ……。
布団のなかに疲れた体が溶けていく。眠い。眠い、けど、頭がざわざわして眠れない。

小魚アーモンドを食べていたら3倍くらいのサイズの小魚が出てきてビックリした。食べて良いものかしばらく悩んだ。美味しかったです。


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