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同居解消への道 コロナがもたらす副益

久しぶりに夫が連休。滝を観に行ったり、墓参りをしたりプチお盆休みを満喫。実家の方でトラブル発生しており、落ち込んだりしつつも、家族の支えで今日も笑顔です。

さて、同居生活ももうすぐ3年。紆余曲折ありながらもなんとかやってきたけど、今年中に敷地内に新居が建つ予定だ。同居解消の経緯について書いていきたい。

同居になった経緯は以前の記事で書いたが、義父を看取り、葬儀や法事ごとに明け暮れ、喪中もあけたころ。悲しみが抜けない家の中で私は悩んでいた。正社員で理学療法士をしていた私は、週休2日で、朝から晩まで働き、帰宅は20時をすぎる日もあった。夫とは同じ職場、同じ部署。行き帰りも同じ車だったこともあり、言い合いになることも多かった。仕事の日は義母が家事をしてくれることになっており、周りからは楽できていいねと言われることもあったが、正直しんどさのほうが大きかった。

生活習慣は違って当たり前だが、お互い本心を隠しながらの生活は、息が詰まることも多い。人に話せばしょうもないことなのだ。ご飯を冷凍にするタイミングや、余ったご飯の処理、賞味期限に対する考え方や、洗濯のタイミング、干し方、掃除の仕方。義母は私にこうしなさいとは直接決して言わない。言わないかわりに私がしていることを後から修正したり、時間がたってから、

義母「それ、嫌やねんけど、気を遣って言えへんわ」

と、面と向かって言うのだ。最後までこうしろと言わないかわりに、嫌だと思っているのに直さなければ私が性格が悪いように持っていくのだ。夫から言わせると、「気にしなくていい」「もともとああゆう人やから、きをつかってくれとると思うで」らしい。その発言にイライラが倍増していくのだ。

ちなみに、私が休みの日は私が家事を全てしていた。暗黙のルールで決まったことにより、私は休みでも時間を気にして過ごすことになる。

何度も喧嘩のたびに同居解消を夫に訴えた。そもそも、最初は敷地内に家を建てる予定だった。義父がそれがみんなのためになると言い切ってくれていた。ハウスメーカーまで決めて動いていた。義父が亡くなり、その話もなくなった。

夫「部屋もあるし、今は母さんを1人にしたくない。何がそんなに嫌なん?

平行線だった。いかに私が気を遣って生活していることを訴えても、自分も母親も気を遣っていると言うのだ。だからこそみんな気を遣わずに生活できるようにしようと言っても、今の家はどうするのかと言うのだ。それ以上責めると、無言になり、私がヒステリックになり泣くと、夫も最終的には泣くのだ。

夫はまだまだ義父の死を受け入れることができていないと思い、責め立てた自分を責め、嫌な気持ちになる。そんなことを繰り返していた。

そんな2021年が過ぎ、2022年2月。私たち夫婦が勤める病院でクラスターが起こった。地獄絵図だった。管理職の夫はたくさんの決断を下す必要があった。現場のリーダーだった私は、誰よりも最前線で動く必要があった。病棟全部がレッドゾーンになったのは初めてのことで、やりながら決めていくことが多かった。後輩たちを動かすには現場の情報収集能力と、判断力、決断力が必要だった。クタクタになりながらなんとかリハビリ科の動きをまとめやっと帰れそうだった18時、病棟看護師が足りず夜勤が稼働しない。助けてくれないかという電話が入った。電話を取った夫(職場では上司なので、科長だ)、

夫「え?うーん…いつですか?はいはい、そうですよね…大変ですもんね。うーん、今日いきなりはちょっと…うーん…はいはい。ええ、ええ。」

夫は管理する立場で昼にしっかり動く必要があった。つまり夜勤はできないのだ。私は覚悟した。

私「私しか無理でしょ?私がしますよ。勤務調整してください。」

人生初の夜勤は日勤深夜だった。つまり、8時半から18時半まで働き、23時45分から翌朝9時半までの勤務だ。そうして私たちのレッドゾーン生活は幕開けした。

70代の義母との同居のため、私たちは万が一自分の病院でクラスターが発生した時のことは事前に話し合っていた。そうなった時は、近所に住む義姉の家に行ってもらう予定にしていた。事前の話し合いでは義母は、異論はないようだった。

その時も夫が昼に義母に伝えていた。出れる準備をしてもらっていると聞いて、帰り道に電話した。私は急いで帰り、ご飯、入浴を済ませたら23時にはまた出ないといけないため、寝ないといけなかった。

私「お母さん?Rさんから聞いてます?大変なことになって。申し訳ないです。今から帰るのでそれまでに出てもらえたら助かります。」

義母「え?今日?すぐに出なあかんの?無理。」

私「え?Rさんから聞いてないですか?今日接触するわけにはいかないんですよ。私、この後また夜間に出勤しないとですし…」

この時点で私たちはPCR検査を受けて結果待ちだった。オミクロン株がではじめたころでまだデルタのなごりがあった。重症化すると言われており、義母にリスクを負わせないための考慮だった。

義母「えー?!そんな急に言われても、布団とか用意しないとやし、、、そんな、何であんたらがそんなことせなあかんの?仕事より家族が大事やろ?」

私の心の糸はプチっと切れた。壮絶な1日を過ごし、恐怖の中走り回り、頭を働かせ、看護師さんたちの勇士を目の前でみていた。小さい子供がいる人も、癌の治療中の人も、みんな臆することなくレッドゾーンの患者さんに寄り添った。そんな病棟看護師さんたちがどうしようもなく、私たちリハビリスタッフに助けを求めてきていた。応える以外の選択肢はなかった。それは夫も同じだった。そして、家族だからこそ応援してほしかった。そして、同居じゃなければそんな思いはする必要なかった。私たちは普通に家に帰り2人で過ごせた。義母のためだった。常に義母のためを思って事前に準備をし、忙しい中連絡をしていた。

私「うーん、わかりました。でもこのままの状態で私帰れないですから、Rさんに連絡します。ちょっと待っててください。」

私は職場に電話して残業をする夫に話した。

私「お母さん今日は家出れんって言うとるんやけど、どうしよ?私もう帰りよるけど、家入れんのやったら、どっかで仮眠してから夜勤しよか?」

夫「いやいや、あかんあかん。何でやろ?ちょっと俺からももう一回話するから、とりあえず帰って。」

夫からもう一度説明をしてしぶしぶ納得した義母は、義姉の家に行ってくれた。出て行く際にすれ違ったが、怒っているのか何のねぎらいの言葉もなかった。私がひたすら謝っていた。

その時点で長くは難しそうだと思った私は、実家の母と姉に協力を依頼した。夜勤明けで寝ていた私に義母から電話があり、家に帰りたいということと、もう一度身体が大事なんだからそんな仕事しないほうがいいと言われた。私は心から傷ついていた。自分たちが1番しんどい時に、義母を思っての行動が否定され、協力してもらえないことが辛かった。

その日、荷物をまとめて実家に帰った。母に姉の家に行ってもらい、私たちは母のアパートにしばらく住むことにした。病院が落ち着くまでの期間限定だが、私の心はもう戻りたくなかった。

病院の状況は日に日に悪化した。現場に立てずに指示を出す立場の夫は悩んでいた。精神的に参っていた。妻である私が身を呈して働くことも、辛かったようだ。よく泣いていた。でも、みんなで、チームで乗り越えた。強くなった。

そんな避難生活の中で私は夫に別居を持ちかけた。感染対策が取れなかったこともあるが、傷ついたことを伝えた。わかってはくれたが、別居には反対だった。何度も話し合った。そうする中でやはり、感染対策のためには別に家を持つ必要があるとはなった。夫は敷地内に家を建てる話を出した。私は、敷地内ですらしんどかった。もう一旦は離れたところで夫と2人やり直したかった。お金のことや家のことなど話し合いを重ねた。永久じゃなくて短期間だけという条件で、なんとか夫婦の中ではまとまった。約2週間の避難生活から帰宅した日、義母は帰った私たちに何も言わなかった。その日、家を出ることを夫の口から伝えた。


過去最大の地獄がスタートするとはその時は思っていなかった…


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