葡萄

以下の文章は2024/09/15にOFUSEに投稿した記事と同じものになります。こちらでもお読みいただければと思います。

ありがたいことに時間だけはあるので、せっかくだしとホラー系のコンテンツをいそいそと観ている。どちらかと言えば怖がりなはずだったのに、生きることをこなしていくうちに、いつの間にか人と対峙することのほうがよっぽど怖いと感じるようになった。小学生の頃、学校で友人や担任の先生と一緒に幽霊を呼ぶか何かの儀式とも言えないほどの儀式をやったことがあって、親に言ったらとんでもない勢いで怒られたことがある。私は呪いよりも目の前で怒り散らかしている親の方が怖かった。お互いを知り合ってもいない、見ず知らずの赤の他人である幽霊よりも、避けることのできない時間の流れと、人との関わりのほうがやはり怖い。その一方で、現時点では全てを説明することは難しいこと、要するに、心霊、呪い、魔術などがこの世に存在しないとは思っていない。まどろっこしい説明だけど、信じている、というよりも、そういうこともまぁ、きっとあるんでしょうね、のような感覚が強い。とても全てを把握仕切れない世の中で、辻褄の合わないことがあっても不思議ではないし、それでこそこの世なのではというわたくしの哲学がその感覚に水をやる。それと同時に、ない、という感覚もあって、それぞれの感覚が混ざり合うように私の中には存在している。

ないことが自分の中で明らかになったのは、大学四年生の初夏、祖母が亡くなって葬式を経た時。それ以来ホラーなどの類いが全くといっていいほど怖くなくなってしまった。そのうち会おう、話をしよう、いつでもできると思っていたことが突然、一切できなくなってしまったことが、私は怖くて、何より悲しかった。本当に「この世にいない」ことを感じとってしまった。ないことへの悲しみはあれど、そこからどう恐怖を感じることが出来るだろうか。

ただ、怖さが自分の中から消えたかといえばそうではなくて、葡萄の皮を剥いたみたいに別のものになった、と説明するのが妥当なように思う。曖昧だったものが明確になるように、カメラのピントが合うように、皮を向いた葡萄の実は今もでらでらと鈍く輝く。恐怖を感じるとき、それはすなわち、わからないことがわかるとき。数学で方程式を使うように、手段がわかれば、なんてことはないのかもしれない。しかし、この世の全てがわかるとき、私の中の恐怖は本当に消えるだろうか?方程式が必ず用意されているだろうか?私が皮を剥いた葡萄は果たして本当に葡萄だったのだろうか。

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