![さすらいのノマドウォーカー](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/2003214/rectangle_large_0f22237e8b62375b7562b24efcd55262.jpg?width=800)
さすらいのノマドウォーカー⑮
時折、思い出したように鳴る電話に応対し、たまった書類を片付けているとあっという間に退社時間がきた。書類はメールに添付できるし、指示も相談も出社せずに済ませられるが、印鑑だけは手で押さなければならない。この昔ながらのシステムは、どうにかならんものか。電子印だって普及してきている。タブレットの液晶に指書きで署名するのは、どうしても抵抗感が残るが…。
キリがいいところまで片付けてしまうか、持ち帰るか悩んでいるところに思いがけない人物が入ってきた。
「佐々木が出社してるなんて珍しいな」
同期の鈴木だ。そちらこそGWに出社なんて珍しいな。交替出勤制度を悪し様にこき下ろしていたお前が。新入社員研修で馬が合い、お互いが違う部署に配属されてからも読書という共通の趣味があったため交流が続いていたが、あることがきっかけで疎遠になっていた男だ。
「久しぶりに飯でも食わねえ?」
面倒くさいので適当な言い訳をして断ったが、「話がある」と食い下がられた。仕方がないので「少しなら」と承諾し、GW明けの処理で間に合う仕事は残し必要な資料だけをカバンに詰め込むと重い腰を上げた。
鈴木が好む小洒落たレストランや居酒屋はどこも満員だった。朝方のニュースで飲食業界が不況と耳にした気がするが、この街は例外のようだ。
あちこちたらい回しにされたあげく、諦めてラーメンをずずっとすすって腹を満たした。これだけは譲れないと言い張るので、鈴木の行きつけの茶店とやらで話を聞く。マスターが一杯々々を丁寧にドリップする落ち着いた雰囲気の店で、すかした文学青年かぶれの鈴木らしい選択だった。
カフェオレを頼むとくすっと笑われた。
「コーヒー、飲めるようになったんだ」
そういう鈴木はオリジナルブレンドコーヒー。
「それでもまだまだお子ちゃまだな」
こういつやつだった。砂糖もミルクも入れないコーヒーを飲むのが大人だという発想の持ち主。その発想自体が背伸びの証だと疑いもしない。馥郁たる香りをたいそうな時間をつかって吸い込み、ひとくち含んで満足そうにうなずくと、ようやく鈴木は話し出した。
「俺さあ、結婚するんだ」
「ああ、そう。おめでとう」
そんなに改まっていうことか?ラーメン屋でも社内の立ち話で済んだだろう?と思いつつもお祝いの言葉を述べる。
就職、結婚は人生の節目だと豪語していた奴だ。己の一大事にもっと仰々しく驚いてほしかったのか不満そうな表情を浮かべているが、疎遠になった元同僚への反応なんてそんなもんだろう。
「…ん、まあ、想像通りの反応だわ」
佐々木らしいな?たぶん失礼なことを言われているのだろうが、長引くのが嫌なので無難に受け流す。こんなに面倒くさいやつだったか?終電まであと30分。
「そんでさあ。新居の頭金が溜まるまで嫁さんの実家に世話になるんだけどさあ」
嫁さん…。鈴木が傾倒してたミステリーの探偵が、伴侶をそう呼んでいた。崇拝する主人公を忠実になぞってしまう言動が気障ったらしい普段の仕草とミスマッチで可愛いいとか思ってしまう。
先ほど、期待されたほどの反応を返せなかったので、軽い罪滅ぼし程度に馴れ初めだのをきいてやった。鈴木はプロポーズの台詞やら式の日取りの意味など散々のろけたあと、申し訳程度にきいてきた。
「佐々木は?」
もっとも話を簡潔にすませられる答えはなんだ?話を膨らましたくない。残り15分。
「実家に戻ってるとか聞いたけど」
家庭の事情を明かさない主義だが、仕事や休暇を融通してもらっている手前、会社の人間に何も言わないというわけにもいかない。誰かに話せば人づてに伝わっていくのだろう。こいつは誰かから聞いたのだろうが、ところどころ話がねじ曲がっている。
「実家、広いんだろ?」
そんな話をしたことがあったか?鈴木自身に話したとしたら、育った家の話だ。こいつがどの時点のことを言っているのかわからない。
「俺さあ。婿入するから肩身狭いんだよね。せったく集めた蔵書も、かなり処分しなけりゃいけいないし」
まあそれが当たり前だろうが…話の進む方向がみえない。はやく終わらせてくれ。残り5分
「だからさあ。佐々木の実家にいくらか置いてくれないかなあ」
…はあ?何言っとんじゃこいつは。
「そんでたまに息抜きに寄せてもらって読書したり、前みたいに読書談義できたらとか思ったんだけど…」
はあ。我知らず大きなため息がでた。
まったく。こいつは。
どうしようもなく身勝手な馬鹿だな。
「うち、シェアハウスやってんだよね。空いてる部屋は全て埋まってる。こっちの居場所もないくらいなんだよ。だから場所は貸せない」
「…そうなのか。じゃあせめてたまに遊びに…」
まだ何かいいかけている鈴木を遮って「今は、どの町にも数千円で借りられるレンタル倉庫があるよ」とアドバイスを残して席を立つ。終電の時間がせまっている。なんとしても乗りたい。
支払いは鈴木が持つと言っていたから任せて大丈夫だろう。カフェオレを味わえなかったのが心残りだ。鈴木の行きつけなら、二度と行くことはないだろうし。縮れ麺を胃袋で踊らせながら駅まで走り、滑り込んできた終電に駆け込んだ。
息を整えているうちに、怒りがこみ上げてきた。
あいつは何を考えてるんだ?
うちを倉庫代わりに?
なめるにもほどがある。
そもそもあいつとは根本的な考え方が合わないんだ。
疎遠になったきっかけもそうだった。
いつも効きすぎるくらい効いている車内の冷房も、今日は怒りを鎮めるのに、ちっとも役立ってくれなかった。
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