さすらいのノマドウォーカー

さすらいのノマドウォーカー⑰

天使の輪が初々しい腰まで伸ばした黒髪にストンとしたデザインのワンピース。

直立不動でマイクを握りしめる少女は、重いそれをただただ落とさないように踏ん張っているだけのようにも見えた。

シャンプーのコマーシャルのように首をゆすって髪をなびかせると、思い出したように背筋を伸ばす。

シェアハウスに帰宅するとリビングでは、姉と店子の仙道さんが顔を寄せ合って何かを覗き込んでいた。

「来てたんだ」

それなら連絡してよと文句を言う前に、見ていた何かを姉に押し付けられた。

受け取ってしまった何かは、9インチほどのタブレットだった。

これがどうかしたかと尋ねる前に人生の先輩方に両脇から挟まれてしまい、にっちもさっちもいかなくなった自分は仕方なく、少女のリサイタルを鑑賞するはめになったというわけだ。

美少女…なんだろうな。

素直に賞賛できないのは、左側を圧迫している実の姉の幼少期だと知っているからだ。

当時のアイドルの曲なのかオリジナル曲なのか。歌詞にはまったく聞き覚えがないが、高音がよく伸びる歌声は、録音状態がよくないのもかかわらず聞き惚れてしまうほどだ。

ワンコーラスが終わり、同じメロディラインが流れてきたところで、ドシンドシンと不規則な低音が混ざり込んだ。

「あら、何の音かしら?」

珍しいことにマシンガントークを封じ込め、大人しくきいていた仙道さんも我慢ならなくなったようで不快そうに眉をひそめている。

まあこの人はいつもこんな顔をしているのだが。

「これ、あんたよ」

姉が肘でつついてきた。

は?

その時、画面の左端からドシンドシンの正体が姿を現した。

レモンイエローの服につつまれた腕を交互に前へつきだし匍匐前進するそれは、コロコロとよく太った赤ん坊だった。

姉の歌に合わせてリズムをとっているのだろうが、美声に酔いしれていたオーディエンスにとっては調子っぱずれの振動音は邪魔なことこの上ない。

赤子の頃とはいえ、己の醜態にいたたまれなくなったが、両側をがっちり固定されているので、結局曲が終わるまでそのままの状態で耐えた。

大げさに拍手する仙道さんに気をよくした姉は、「なんならこれから生ライブする?」とのたまう。

言い出したら聞かないのは仙道さんも姉も同じ。面倒なことにならないうちに話題を変えよう。

「どこからひっぱりだしてきたのさ?こんなの」

「母さんが聞きたいっていうから」

「…母さん?」

「…あんた留守電聞いてないの?」

あわててスマホを確認するが不在着信もメールも留守番電話のお知らせもない。

「あ、間違えてここの固定電話にいれたかも」

まったく、美人で頭が良くて何事もそつなくこなす姉はたまにとんでもないドジをやらかす。

自分がシェアハウスにいるのに、そこへ伝言を残してどうするというのさ。

「じゃあ、母さんは…」

「意識、戻ったよ」

ある日、音を立てて崩れ去った平穏な日常は、もっと劇的に終焉するものだと思ってた。それこそ小説の読みすぎか。大概のことは読書で得た知識や経験が、実生活をサポートしてくれていたのだが、こんなところに物語中毒の副作用がでるとは。

いやはやなんともかんとも…

姉と自分を盛大に突っ込んで心のバランスをとったあと、しみじみと母の意識が戻った喜びを噛み締めた。

母さんに今すぐ会いたい。

何故か幼稚園のガラスのドアが浮かんだ。デフォルメされたキリンとゾウが描かれたドアが開いて母が迎えにくるのを、じっと下駄箱で待っていたっけ。幼稚園の先生がお腹が冷えるからお部屋で待っていましょうと宥めても、頑として簀子の上からどかなかった。

今、自分の心は幼少期まで戻ってしまったんだろうか。もしくは赤ん坊までに。

こんなに無防備に涙を流してるなんて。

もう、大人なのに。

もう、独り立ちした大人なのに。


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