さすらいのノマドウォーカー⑫
もう1冊はいつ読もうか。明日の楽しみにとっておこうか。心ここにあらずなのでいっこうに鍵が見つからない。鞄の中を引っ掻き回して玄関の鍵を探していると、声をかけられた。
「あの…」
まだ5月なってもいないというのに真っ黒に焼けた肌をスポーツブランドのポロシャツで包んでいる10代後半から20代前半の男性。
ええと確か…
「3号室の江幡です」
ああ、そうそう。ゴミを分別するのに最後まで抵抗した江幡さん。
大方、甘やかされて育ったボンボンだろう。ママンが先回りしてお世話した結果、世間知らずの自覚がないまま大人になったタイプの。
「なにか?」
苦手なタイプなんだよな。どうしても、そっけない返答になってしまう。
「風呂の電球が切れてて…替えてもらえますか?」
「それは、すみませんでした。すぐやります」
荷物をいったん1階のダイニングキッチンに置くと、備蓄庫として使用している戸棚から60ワットと40ワットの白熱電球を選び取る。少し迷って100ワットも持っていくことにした。浴室の電球で100ワットはないと予想するが、備蓄されているということはどこかで使用しているということだ。また1階に戻ってくるのは面倒だから念のために。時間のある時に各所のワット数を確認して、使用場所を明記したラベルを備蓄棚に貼っておこう。複数人で管理するとはそういうことだ。会社で培った経験を少しでも活かさなければ。
3球入ったレジ袋を左手にかけて戸外へ出ると、2階の入口へ向かう。ぼーっと待っていたらしい江幡坊っちゃんを連れて。こぎみよい足音を鳴らして階段を駆け上ると、脱衣所の明かりをつけてから浴室に入った。
あ。脚立の仕舞場所を知らない。代わりになるものを探してうろうろすると、ダイニングテーブルの椅子を見つけた。
浴室に取って返すと花柄の薄いクッションが敷かれた座面にのぼり、電球カバーをそっとはずす。背後で心配そうに見守っている江幡ボンが目に入った。手伝わないなら邪魔だから自室へ戻れ。電球をまわしてソケットからぬき、新品を差し込む。スイッチを入れて、点灯の確認をする時もボンは傍観していた。
「ふう。完了」
「あの…ありがとうございます」
「いえ。…いつから切れてましたか」
「おとといかな」
「そんなに…ご不便おかけしてすみません」
電球くらい変えておいて、後から代金を請求しろよと思ったが、坊ちゃんには無理か。お礼を言えるだけマシ。
生活能力の欠けたボンボンどもの救済措置を考えないといけないな。
代理の管理人は毎日いるわけじゃない。毎日いるらしい仙道さんはなにもしてくれないだろうし。
「あの…大家さん、どうですか?」
「ご心配ありがとうございます。残念ながらまだ…」
「そうですか…」
「なるべくご不便をおかけしないよう尽力しますので」
母に比べれば頼りなくて不安だろうけど我慢してもらうしかない。本音を言うと、余所へ移ってもらって構わない。いや、むしろ移ってほしい。姉とふたりで相談して、新たな入居者は受け入れないと決めたものの、実際は誰も転居していない。医療費の足しになるので、こちらから転居を申し出るに至っていないだけだ。だいたいなんでボンボンがこんな格安シェアハウスにいるんだ?
会話は終了したものと思っていたが、椅子を片づける間もボンはついてくる。まだ要件があるのか。面倒だな。こちらの反応がないと知ると、ボンはおずおずと切り出した。
「最近、ロングヘアの女性はこないんですね」
やはり目的はそっちだったか。ここにも姉のファンがいた。
「いろいろと忙しいみたいで」
既婚者だと教えてあげたほうがいいだろうか。淡い憧れくらいならいいんだけど。余計なこというと怒るからなあ。情報を最大限に有効活用しようとする姉は勝手にプライベートな情報を漏らされるのを嫌う。
「どういったご関係ですか?」
ダイニングを出ると2階にも1階と同じ場所に戸があるのを発見した。
「姉です」
息を飲む音が聞こえた。江幡ボンは相当驚いたようだ。
「似てませんね」
「よく言われます」
ステンレスのドアノブを捻ると、中には探し求めていたもの。脚立が鎮座していた。こんなところに…ここには「脚立」のラベルを貼ろう。
テープに直接印字するタイプがいいかな。テープとインクを買っていけば、会社の備品を使わせてもらっても怒られないよね。
振りかえると江幡ボンがまだ突っ立っていた。なんだかモジモジしている。
泳がせていた視線を上げると思い切ったように聞いてきた。
「あの…お名前、お聞きしてもいいですか?」
それくらいなら教えてもいいだろう。仙道さんみたいに家族全員を佐々木さんと呼ばれるのも紛らわしい。
「真琴です」
「真琴さん!素敵な名前ですね」
「はあ、そうですね」
それは名付けた両親にいってやってくれ。ファーストネームには嫌な思い出というか…コンプレックスがありましてね。名前の話題を膨らまされるのは避けたい。さっさと退散しよう。玄関へ向かおうとするも間抜けな音に引き留められた。
ぽうぅ~
音の主。江端ボンはすでに赤かった顔を首まで真っ赤にして恥ずかしそうにお腹をさすった。
「ははは…さっきまでレポート書いてたから。お昼、食べてなくて」と言い訳する。「そういえば、大家さんのご飯、おいしかったなあ。また食べたいなあ」何かを期待するような眼差しを寄こす。
「おいしい…?」
母の料理はオーソドックスな味付けでそこそこおいしい。それが長所なのだが、たまに冒険心を出して創作料理をつくる。そうすると必ず、とんでもない代物ができあがる。
「若い人が好きな料理」を頑張ってつくったあげく、「とんでもない代物」が食卓に並んだのは想像に硬くない。
こちらの怪訝な顔に、目の前の人物が、その料理で育ったことにようやく思い立ったようだ。
「まあたまに、その、あれでしたけど。総括するとおいしかったになります」
苦笑いしながら、ごにょごにょとごまかしてきた。
ご飯つきの下宿に近いシェアハウスというふれこみだったが、母が倒れてからに非常事態を理由にご飯の提供は休止していた。
ちょうど夕飯時だ。自分用に買出しはしてあった。
「ついでてよかったら作りますよ」
名前から話題がそれるほうが有難かったし、なによりピンチをチャンスに変えるその根性に免じて提案はしてあげよう。
「いいんですか?やったー」
遠慮してくれることを期待したのだが…。そこまで無邪気に喜ばれたら冗談ですともいえない。
まあいい、遠くない将来、姉が傷つけていまうだろうから。お詫びとして差し出そうではないか。
お詫びの前払いってのも変だけど。
1階のキッチンに移動すると早速調理を始めた。
まずはサイドボードの奥深くに眠っていた乾麺をゆでる。賞味期限は先月末。火を通すしギリギリセーフだよね?
吹き零れないように鍋に目を配りながら長ネギを刻む。
ネギ、大好きなんだよねえ。
「わ。エネキネス!どこで手にいれたんですか?」
「もらいものです」
置きっ放しだったエナジードリンクを目ざとく見つけたボンが、いかに入手困難か説明してくれた。数量限定で云々。一部のコンビニしか入荷されなくて云々。
ふーん。ゲーマーの同僚は心底から喜んでたんだね。ゲームをしない人種には宝の持ち腐れなのに。価値のわかるボンにあげてもよかったが、同僚の気持ちを無碍にしたくなかったので黙っていた。
お次は小分けパックの納豆に付属のタレを入れて、箸でグルグルと混ぜ合わせる。
その後も江幡のボンボンが、なんだかんだと話しかけてくるが適当にはいとかええとか行っておく。
茹で上がったひやむぎを冷水でしめて、ガラスの平皿に盛る。大量のネギと納豆、ぬめりと取ったナメコをトッピングして市販のめんつゆをざっとかける。
「お待たせしました。見た目はグロいけど味は普通ですよ」
ウズラの卵を割って中心に落とすと見栄えがするのだが、今日は手抜き。
「普通…ぶふっ。そこは味はいいっていうところですよ?」
「過大評価はしない性質なんで」
何がおかしいのかいつまでもクツクツ笑っているボンは放っておいて、自分も向かい側に座ろうとすると絶妙のタイミングでドアが開いた。
「まあまあ。美味しいそう。私もいただいていいかしら?」
尋ねたのは建前で、すでに椅子に座って箸をもっている仙道さんは、調理の音を聞きつけて出来上がるまで自室で待っていたのだろう。そんな予感はしていたさ。
「あ、あのそれは…」
果敢にもネバネバ麺を仙道さんから守ろうとする江幡ボン。いいんだよ、江幡ボン。仙道さんに何を言っても無駄だから。
「佐々木さんのお料理をいただくのは初めてねえ」
ひやむぎとネバネバを口に運びながらも仙道さんのマシンガントークは止まらない。引き攣った笑いを浮かべるボンに「あとは頼む」と心の中で伝えると、新たに湯を沸かすため、鍋に水を張った。
どうせなら作る前に来てくれればいいのに。
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