さすらいのノマドウォーカー

さすらいのノマドウォーカー④

「あら、そうなの…。あらあ。…そうなの」

会計待ちの最前列に並んでいた上品なご婦人が、名残惜しそうに出ていった。

お昼時ではあるが、まだ空席はある。売り切れるほどの人気メニューでもあるのだろうか。ご婦人の意に沿わなかった理由が気になるが、順番がきてしまった。

パスタとサラダ、ドリンクのセットが、コンビニで買い揃えるより安い値段だったので迷わずオーダーする。

運よくレジ前のテーブルに座れた。壁を背にしたソファ側なのはいうまでもない。

ここならば混雑をいち早く察し、お店側と後からくる客に迷惑をかけないで済む。

左隣のおばちゃん軍団のおしゃべりが少々甲高いのが気になるが、会話の筋が繋がらない程度にBGMのトランペットの音色がかぶさるので懸念材料というほどでもあるまい。

ちょうど曲の合間だったのか、右隣から昔懐かしの黒電話を模した着信音が鳴った。

「は~い~。もしもし~」

ここは年配女性の憩いの場なのか、右隣も母ぐらいの年齢の女性だった。ジャケットを羽織っているので主婦ではないのかもしれないが。

「はい~、そう。フレンチ~」

ミートソースをたっぷりからめたパスタを頬張った直度だったので、あやふく吹き出すところだった。

そりゃ、フレンチレストランでもパスタを出すけれど…

そう、ここは、イタリアンオリーブ。

グラスにもナプキンにもオリーブをモチーフにしたロゴマークとともに、でかでかと「イタリアン」と印刷されている。単純な勘違いか、それとも見栄を張ったのだろうか。電話の相手は宿敵か?などと想像を逞しくするが…。

…邪推だった。

耳をダンボに、全身を集音機にして成り行きを聞いていると、来週のランチの約束だった。

「そうそう、いまはイタオリよ~」

コロコロと朗らかに笑う女性に、心から謝罪する。

いけないいけない。あの年頃の女性イコール「仙道さん」になってしまっていた。中年女性の全てがカタカナ語をいい加減に覚えたり、他人を妬んでばかりいるわけがない。尊敬する人もたくさんいるのだが、なにしろ仙道さんの印象が強烈で強烈で…。

今日はうまく逃げられたが、逃げ続けると自乗になってたまっていくので適当にガス抜きしてやらないといけない。はあ。気が重い。

お腹もくちくなり、糖質を補給した脳が徐々に機能しだした。

さて、ひと仕事片づけますか。

メーラーを立ち上げ、まずは「重要」とびっくりマークがついているメールを開く。

抽象的な質問内容に、知識と想像力を総動員して挑んでいると、目が霞んできた。

目薬は鞄に入れてあったかな。あったとしても開封してから何カ月も経っている。目薬の選択肢を削除し、ドラッグストアで新しいのを買い求めようと記憶の片隅にメモ書きする。代替案として眼筋をストレッチすることにして、上、下、右、左と眼球を動かす。最後に右回り左周りとぐるっと1周させて定位置に戻すと、右隣のテーブルにプラスチック製の灰皿が置かれていることに気が付いた。

茶色いそれのうえでは、紫煙が立ち上るタバコが1本。

おや?喫煙できる店だったっけ?

レジの隅には先ほどはなかった(はず)の灰皿が林立している。

もう一度、右側へ視線を戻すとフィルターに吸わない自分でも知っている、有名な銘柄が刻印されているのが見て取れた。そうか。霞んでいるのは目でなく、煙のせいか。

右隣の客はいつの間にか「フレンチ」おばさんではなく、壮年のご夫婦に代わっていた。

ソファに座る奥さんが「ここ、タバコ吸えるんだっけ?」と咎める口調で話しかけている。どうやら同意の上での入店ではなかったようだ。旦那さんが得意げに「2時からね」とこちらの疑問まで解決する答えをくれた。

なるほど。先ほどのご婦人の目的に思い当った。

いやはや。あのお上品なご婦人が喫煙所難民だとは。

女性がタバコを吸うななどという了見はもっていないが、もう少し粘ったらどうにかなるのではという意図を感じとっていただけに、「上品そうなおばさん」に対する見解が塗り替えられたのは間違いない。

穏やかでない心中を静かに整えていると、またもや心を乱す存在が現れた。

右手にがま口、左手にタバコのソフトボックスをもったつっかけ履きのおばさんが、つかつかと入店してきたのだ。

左隣のおばさん達グループのお仲間なのか、挨拶でひとしきり盛り上がると、当たり前のように合流した。

そして、おもむろにタバコを咥え、粋なしぐさで火をつけた。

うまそうに吸い込んで鼻から煙を排出すると再び談笑に興じる。またたくまに1本吸い終わると「じゃ」と颯爽と出て行った。

飲食店で飲まず食わず?あげくにタバコ休憩所として使った?

飲食店の飲食物の価格には席代も含まれていることを知らないのだろうか?あえて無視してる?5分ならいいだろうとか、友達が席代払ってるからいいだろと自己解釈してる?もうマナーとか常識とか超越してしまっている。

店員は洗い物にかまけていて一部始終を知らない。忙しいのか忙しいふりをしているのか。

四角四面で接客業はやっていけない。仕方なく目をつぶる事柄が何事もある。これまでの社会経験で理解しているつもりでも、目の当りにするたびに胸がざわつく。

仕掛中の案件だけ終わらせよう。切り替えてノートPCに向き直ると視線を感じた。

元来、他人の視線には敏感だ。今はさらに過敏になっている。右隣の奥さんが体勢はそのままに視線を動かしたのがわかった。

覗いてた?モニターを覗いてた?

メーラーは閉じていた。機密事項はない。ただ…

先ほどからの店内の出来事を委細もらさず打ち込んでいたのを読まれた?

背もたれが深く作られているソファに寄りかかると、モニターが見える位置になるが、覗き見防止用のフィルムを貼ってあるので45度より浅い角度ならばモニターは真っ黒なはずだ。しかし奥さんは左に少し傾いて明らかに45度より深い角度でソファに頭を置いていた。絶対に読んでいた。視線をそらしたのが何よりの証拠だ。

もうやだ。やっぱりおばさん怖い。

やっぱりおばさんはみんな仙道さんだ。

仙道さんなんだー!




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