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【百線一抄】057■権現おわす地を結ぶ夢の浮橋ー日光線

明治初期から海外においても名が通っていた名勝、日光。鉄道が繋
ぐようになったのは1890年、今の東北本線に列車が宇都宮へ走
り始めてから5年後のことであった。鉄道国有化によって東北線と
あわせて国の鉄道として組み込まれ、首都東京と景勝地日光を結ぶ
比較的重要な路線としての地位にあった。江戸期以来の流れを受け
て、東京上野からの直通列車も開業当初から複数設定されていた。

短路線の印象がある日光線だが、実際の距離は40キロほどある。
進行方向が宇都宮で変わる線形ではあったが、東武日光線の到達で
やむにやまれず競合状態に巻き込まれていく。客車列車ながらも、
速達重視で都心と日光を直結する列車を設定して、当時の主要急行
列車よりも少ない停車駅で鎬を削る展開を見せた。東武も専用電車
と展望車を投入して話題をさらったが、深まる戦時体制の変化とと
もに優等列車の削減や休止が進み、競合状態はひとたび収まった。

我が物顔で闊歩する進駐軍列車が日光観光再開の端緒となり、独立
回復後の直通列車競争は戦前を上回る熱を帯びて火花を散らす。鬼
怒川と日光を最短距離で結ぶ東武と、日光と都心部周辺の各地域を
まんべんなく網羅することができる国鉄。新型車両が先を競う如く
に次々と導入され、両線のサービス水準は当時の最高峰といえた。

クルマの普及と余暇活動の変化、石油危機以後の相次ぐ運賃値上げ
も相まって、国鉄側の地位は凋落の一途を辿る。東北新幹線の開業
が日光線の優等列車に引導を渡し、地域輸送型路線の地位に落ち着
く。JR移行後は直通列車も削減が進み、本線とは異なる短編成の
列車が往来するのが日常となった。後に日光の社寺が世界文化遺産
に登録されると、再び観光客受け入れのテコ入れが行われるが、都
心からの直通列車は東武に乗り入れて日光へ向かうようになった。

世の栄華を彷彿とさせる日光駅では、観光シーズンになると日頃と
は一線を画す賑わいを見せる。首都圏各地から日光へ来る修学旅行
の児童生徒が団体列車で出入りするからだ。近年は時期によるが、
ツアー参加者限定のクルーズトレイン「四季島」も日光に訪れる。
希代の競争を経て歩みをとめたかのように見える日光線だが、各地
から乗り入れてくる列車を受け入れることができる包容力は、他に
ない光るものがある。新車導入にとどまらぬ新施策に期待したい。

それでは次回の投稿まで、ごきげんよう。

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