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受験の真価は受験生のなかにある

一部の世界で盛り上がっている話題のひとつに、大学入学共通テストにおける不正行為に関するものがあります。ある意味、現代的だなあと思えるのが、オンライン会議アプリやチャット通話アプリを用いて問題を提示し、その解答を得るという手口。現場で試験監督は何してたんだろ?と思うところはあるのですが、ここでの主題はそこではありません。

一言で言うと、試験に取り組む意義を考えたいのです。

毎年、入試に挑む戦友(受験最終学年まで授業に関わった受講生を自分はこう呼んでいます)に対して贈るメッセージのひとつに、「積み上げてきた実力をどれだけ出しきれるか実践してこよう。出しきれていたら確実に道は開けるから」というのがあります。これは筆記試験に限らず、実技試験でもいえることで、入学・入社試験にとどまらず、資格検定試験はもとより武道の昇段試合や囲碁将棋などのタイトル争奪対局もあてはまると思います。

いつも教壇で口にするのが「いつ問われても答えが出せる力。それは丸覚え(暗記のみ)だけでは満たされない。身につけた知識や経験を総動員させて最適解を引き出せる力こそ、本当の実力となる」ということ。いまの立ち位置(現職)に至る前から自分は暗記というものにこだわりはなく、社会科の先生でありながら“暗記科目”という表現を完全否定しています。もちろん、〈何も覚えなくていい〉というわけではなく、内容を理解するための語句や定義、説明は脳内に入れておかないと話になりませんから、実際の授業の中でも「これは覚えてもらいましょう」という表現がたびたび出てきます。そして、定期考査の中でも一問一答よろしく「単語が書けたら勝ち」という設問もある程度は出題しています。

ここまでに述べた考え方、やり方に実感を持てている受講生、もしくは明確な目標を持って自分を高めるやり方が確立できている受講生は、短期的な出来不出来の波こそあれど、長期的にはしっかり辻褄を合わせられる結果を勝ち取ってきています。一方で、そうでない人は昔のテレビCMでもありましたが「そうでない方は、それなりに」の結果にたどり着いています。

このような考え方を持つ自分からすれば、冒頭の話題にあるような不正行為に手を出す者というのは「その程度の実力しか持ち合わせていない」もしくは「そもそもフェア(公明正大)な姿勢で挑む気がない」のだとしか思えません。はっきり言って、真っ正面から史上最高の実力を見せつけようとしている(大多数の正しい)受験生に対する冒瀆とも言えます。というか、それで道が開けたとしても、その道もその程度(想像以上に脆弱で、瑕疵だらけの工事による完成度)でしかないでしょうから、せいぜいその道にすがればいいのでしょうけれど。

漫画「ドラゴンボール」シリーズの孫悟空は”強いヤツと闘えるとなるとワクワクする”そうですが、この気持ち、ものすごくわかります。試験だってそうでしょう? 簡単だと判っている問題でサクサク解いて100点もらうよりも、ありったけの知見をフル活用して60点ぐらいかなと思っていたら80点取れていたほうが、やりきった感はとてつもなく大きいはず。そして、及ばなかった20点から40点分は次の進歩に向けたジャンプアップのための格好の糧となります。逆に言えば、満点ばかり取っていると、この糧はいつまでたっても手に入らず、自分でどうにかしてひねり出さないといけなくなる(もちろんその方が遥に大変)というシロモノでもあります。

もう充分でしょう。すなわち、不正行為によって入手した解答は、この糧が手に入らないことはもとより、やりきった感は言うまでもなく湧かないだろうし、ワクワクもしないでしょう。もちろん、「自分の実力を出しきろう」なんて念頭にすらないのでしょうから、真剣勝負しかない局面に至ってしまったらどうなるでしょうね。まあ、知ったことではないですが。

「価値ある勝ち」は、文字通り自身の進路と正対して一所懸命に積み上げてきた実力を以てこそ手に入るもの。すなわち、受験そのものの値打ちをどこまで高められるかは、

合格不合格の結果も含めて受験生自身の経験すべてにある

と言えます。目先の利や正攻法でない近道は、“楽”ではなく“落”への一里塚と心得ましょう。

ここにたどり着いたすべての方が、真の勝者になれる(もしくはすでに勝者になっている)ことを信じています。これからも勝ちに行きましょうぞ。

それでは次回の投稿まで、ごきげんよう。

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