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【百線一抄】061■伊勢路の嚆矢とばかりにみえが往くー参宮線

伊勢神宮を結ぶ鉄道路線が早期から注目されるのは必然であった。
認可を受けたのは地元出資者が中心となる参宮鉄道。亀山から津へ
進出していた関西鉄道に接続するかたちで山田をめざす。まず宮川
へ到達し、延伸区間の免許が下りて外宮の近く、山田に駅を構えた
のは1897年であった。京都から直通列車も走るようになった。

内宮や外宮、二見浦方面へは路面電車が走っており、全国各方面か
ら来る参拝客を一手に受け入れていたが、1906年の鉄道国有法
の成立により関西鉄道とともに国有化された。国が工事を進めた二
見浦を経由して鳥羽までの延伸は明治の末に達成された。これで亀
山から鳥羽間が全通、全国と伊勢を結ぶ列車が走るようになった。
この時代は伊勢神宮はもとより二見浦、鳥羽に直接乗り入れている
のが参宮線のみであり、国を挙げて多くの利用客をさばいていた。

やがて戦時色が濃くなるに従い、行楽色が強かった神宮参拝は衰退
へ向かうことになった。直通優等列車が消えてしまうばかりか、点
在していた複線区間もすべて単線に変更された。戦後になるとこの
区間にも関西圏や名古屋からの直通列車が復活するが、延伸が進め
られた区間が西側と繋がると、多気以北が紀勢線に組み込まれた。

権勢が大きく変わったのは70年代。名古屋と大阪を結ぶ近鉄が台
風災害からの復旧や直通列車の増加に力を入れるとともに、当時の
高度経済成長の波に乗って伊勢志摩エリアの観光開発を推進した。
孤立した状態となっていた鳥羽以南の区間と宇治山田を結ぶ鳥羽線
の完成後は近鉄特急が各地から賢島まで直通するようになり、沿線
への観光客は近鉄を使うのが主流となった。国鉄の直通列車は次第
に減少し、JR移行前のダイヤ改正で優等列車とともに消滅した。

2両編成の快速「みえ」が今の主役。名古屋ー鳥羽間の直通運転で
掘り起こした需要は決して小さくはない。近鉄の特急や急行などに
引けを取らない所要時間で健闘しており、三重県内の各都市をつら
ぬいて新幹線乗継や域内利用客を朝から夜まで1時間毎に運んでい
る。一部の駅に残る長いホームや大きな駅舎は、たとえ一時期でも
幹線級だったことを黙して示す語り部。近鉄共同駅の伊勢市や鳥羽
などで参宮線ホームが1番線を名乗っているのもその片鱗なのだ。

それでは次回の投稿まで、ごきげんよう。

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