見出し画像

【百線一抄】018■老舗に挑んだ超特急の夢路ー阪和線

すべからく特急なるものは速くあるべきだ。これは古今東西誰もが
認めるところだろう。ではそれを上回る列車があるとしたなら、そ
の名称は何とするか。いまどきなら「快速特急」あたりがおあつら
えむきなところだろうが、何と昭和の時代には「超特急」なる名称
の列車が俊足を競っていた。今回はそれらの頂点に触れてみたい。

紀州和歌山と大阪を結ぶ路線としては、明治期から南海鉄道が営業
していたが、それよりも内陸部を直線で一気につなぎ、強力な電車
による高速運転にて対抗しようとするプロジェクトが動き始めた。
世は恐慌期にあったが、私鉄ネットワークの拡充は活発で、夢のあ
る壮大な計画が数多く立ち上がっていた。このプロジェクトにも、
難題はいろいろあったが、路線網の充実を狙う国の思惑もうまく絡
み合い結実した。JR阪和線の前身、阪和電気鉄道の登場である。

より速くと所要時間が続々短縮、阪和間の最速はついに45分とな
る。現在の特急「くろしお」が1駅停車で最速42分だが、これと
さほど変わらない所要時間で80年以上前に走破していた。和歌山
へ向かう「超特急」と、紀勢線でさらに半島の奥をめざす直通列車
や貨物列車など、多種多彩な列車が高規格の路線を日々疾駆した。

揺るぎない高速運転の地位を確立したように見えた阪和電鉄だが、
目を見張る功績を築いた期間はそうも長くない。目まぐるしい戦況
の変化とともに政府は統制を進め、経営不振に陥っていた路線を南
海山手線として合併させた。そして、国が掲げた戦時買収の方針に
よって現在の阪和線の原型ができたことになる。戦後からは日根野
以北で次第に人口が増加して、昭和50年代に入ると所要時間がち
ぢまるどころか、運転本数も停車駅も乗客も増加の一途を辿った。

日根野から分岐する関西空港線に乗り入れて関空へ向かう関空快速
と、和歌山に向かう紀州路快速が併結して、大阪環状線の主要駅を
めぐるようになり、昭和と平成の時代を駆け抜けた阪和線は朝から
夜まで大阪のキタと天王寺、空港と和歌山を結ぶ路線に成長した。
国の施策に翻弄された阪和電鉄の歴史も何のその、「超特急」の誇
らしい実績を生み出した線路や設備は、現代においても充分その役
務を果たす。今は転換座席の銀色の電車が颯爽と行き交っている。

それでは次回の投稿まで、ごきげんよう。

サポートをお願いいたします。いただいたサポートはたまなび倶楽部の運営費として活用いたします。