見出し画像

一部の消費者から滅失しているもの

ここ数日の報道で、ある意味共通するもやもやがあります。
それは、ほんのわずかな向きによる迷惑行為や犯罪行為、そして罵詈雑言について。
そして、少し見えてきたところがあるので、ここに書いてみます。

昭和の末期や平成初期、このような話題というのはどちらかというと生産者の冒瀆というか、利益優先の施策によって消費者が泣きを見るケースが多分野にわたって介在していました。

しかし昨今はどうでしょう。お店や農家、工場といった作り手や売り手に対して「客」の面をひけらかした向きが、言いたい放題やりたい放題ぶちかますといった話題が多くなっているように思えます。

買い手にとっては100円や1,000円のモノやサービスかもしれません。だけど、そのモノやサービスを自分で用立てたとしたら、それと同等もしくはそれ以上の質や量を作り出すことはできるのか?となると、大半の案件については結論が出ているはずです。

「たぶん、それを買う方が安く付く。ないしは簡単に手に入る」

なのに、もしかすると現代人のわれわれは、その「安く付く」や「簡単に手に入る」ばかりを研ぎすませているばかりで、

【その作り手がそこまでに至るまでにどれだけの『労力』と『時間』をかけているか】

をいとも簡単に看過しているのではないかと思います。

ものづくりに限定しません。

「電車賃やバス代高すぎるわ」「話を聞いただけでぼったくりやんけ」
「ちゃちゃっと描いてカネもらう。ええ商売やのう」
「子どもの面倒見るだけでカネ取るん」
「拝観料って何なん、小っちゃな庭見るだけやのに」

言葉尻の問題ではありません。どこでもあり得る話です。
だけどそれを提供している企業や団体、個人はそこにいたるまでにおそらく、少なくとも数万円、スケールによっては数億円かけているはず。
ましてやそれを培ってきた、維持してきた、継続していくのにも相応の費用がかかっています。
そして、欠かすことができない大切な要素。それは「時間」です。
時間は生きている限り、その人にとってかけがえのないもの。
その積み重ねをゆかりある人々に役立てる、喜んでもらうことでその人も収穫がある。そのつながりに料理や絵画・写真、技術、施設開放、コンサルタント……さまざまなモノやサービスがある。
そこに至るまでにかけてきた「時間」を、もっと消費者側はくみ取るべきだ、敬意を抱く(示せとは言わない)べきだと思うのです。

写真は京都の蹴上。桜の見どころとして有名なスポットです。

桜は毎年この時期、空の一面を桜色に染めて私たちに春の到来を伝えてくれます。そして10日もすると散り始め、葉桜へ装いを変えていきます。多くの人たちがその風景に色々な想いを寄せて、この時期ならではの日々を過ごします。そしてこの風景はかたちを変え、すがたを変え、時間の流れとともに地域や訪れた人々にいろいろな感銘を残してきました。ここも、長年の時間と、その風景を作り出してきた人々の力や想いによる賜物なのです。

そしてそこに今回の話をのせると、次のようなことが見えてきます。

この風景を見ることができるのはどういった働きによるものなのか。
ここに来るまでの道や電車、バスはどのように運営、管理されているのか。
この桜の木々やインクラインなどにはどのような想いがこめられているのか。

こういったことを考え、知ることが、よりよい環境や作り手・売り手と消費者との関係につながっていくと思うのです。

それによって、先ほどの心ない声の例はこう変わるような気がします。

「電車賃やバス代も高いけど、歩くのはもっと大変やもんな」
「その話をしてもらうまでに、アンタそうとう勉強したんやな」
「画材とか買うのもお金かかるし、何枚も描いてきたのがわかるなあ」
「人の家の子どもを預かるのも大変やのに、ようやってくれはるなあ」
「これだけの庭でも、ずっと管理してきたってのがすごいなあ」

モノでもサービスでもそう。
どんな仕事でもそう。

消費者のみなさん、ちょっと作り手さん・売り手さんの立場になってものごとを考えてみませんか。
何でそれをやるとダメなのか、まわりが困るのか。危険なのか、不公平なのか。
世の中の最近の雑音は、これらが滅失しているところから噴き出しているような気がするのです、というオハナシでした。

それでは次回の投稿まで、ごきげんよう。

サポートをお願いいたします。いただいたサポートはたまなび倶楽部の運営費として活用いたします。