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桜の頃にT-BOLAN

桜の花が街を彩り始めた。季節の変転を一気に感じさせるように、急に暖かくなってしまったのだから、桜も花を開かざるを得なかったのだろう。

大濠公園では毎年のように、「桜祭り」が催されていた。軒並み屋台がひしめき合い、レジャーシートがそこかしこに敷かれる。芝の緑に幾何学的な青色が敷き詰められ、見上げるほのかな桜色。鮮やかな色彩に彩られ、缶ビールを傾ける。うん、これこそ花見の儀礼だよね。

ぼくは公園を、イヤホンをつけながら何気なく歩いていた。誰かと花を見ているわけでもないし、宴に明け暮れるわけでもない。ただのお散歩は、どうやらお祭り化した花見に馴染まないみたい。

桜をぼんやりと眺めていると、耳障りの良いピアノのメロディが聞こえてくる。「離したくはない」だ。美しいピアノのメロディと、ロックテイストの融合。そして森友嵐士の歌声。90年代のJ-POPを代表する一曲は、いまだに新しさすら感じさせる。

ところで桜と森友嵐士の歌声は、どうしてこれほどまでに合うのだろう。五味孝氏の突き刺すようなギター音は、どういうわけだか、風に揺れる桜の情景を彩るかのようだ。

そうか、T-BOLANの名曲はどれも、どこか虚しい。

「離したくない」は、率直すぎるほどにせつなさを歌い上げる。
「Bye for Now」は前向きな別れを望みつつも、どこか儚さを感じさせる。
「すれ違いの純情」には、「アイツはもういない」。

あのロックテイストに散りばめられる「マリア」の詩は、どこまでも悲しみに溢れている。だからこそ、マリアにはあのロック調が不可欠なんだ。

桜の花をこれほどまでにみんなが愛するワケは、間違いなくその儚さにある。その虚しさにこそ、美しさはある。咲いたかと思えば散っていく。いわゆる見頃は一週間にも満たないだろう。
その儚さは、流転しゆく自然の最も純粋な結晶体にほかならない。


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