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Vtuberという文化のおいしい食べ方①~Vtuberについて書きたい件~

僕は今1人でDiscordの自分のサーバーに籠り、旧ソ連の音楽を聴いています。赤軍の合唱団が、自分の国の強大さを力強く歌います。頭のどこかから馬が駆けてきて、広大なシベリアの荒野に走り去っていきます。この音楽ができた当時では考えもしなかったであろう、かの国の運命を占うかのようですね。

Vtuberという文化を食って生きている僕ですが、クリエイティブな事を一切やってこなかった訳ではありません。僕は底辺配信者ですし、ファンアートもマイクラドット絵という形で作ってきました。因幡はねるさんのリアルイベントにも参加しました。それがなんだという話ですが。

少しだけでもクリエイティブな事を味わっておきたいという思いが、僕のインターネットにおける前傾姿勢を作りあげてきました。noteにこのような記事をあげて、少しでもクリエイター気取りをしたいという気持ちが、自虐的な本音です。

そんなちっぽけな僕ですが、話を聞いてくださるとうれしいです。

Vtuberという言葉について

Vtuberという言葉ができたのは2017年12月なのではないでしょうか。「バーチャルYoutuber」はキズナアイさんが初めて使った言葉で、それが2016年の12月初めの事です。2017年12月頃に例の爆発が起きましたから、Vtuberという省略語ができたのはそれ以降でしょうね。

noteでは「バーチャルYoutuber」よりも「Vtuber」の方が一般的なようですね。最近はVtuberの方が一般的な気がしますので、僕もそちらを用います。

僕の書く事について

僕の思想では過去は今の積み重ねであり、未来も同じです。大事な事は過去どう生きたかが結果として今に至るという事です。これらの事から僕は未来を考えるより今を優先して生きていますし、未来か過去かなら過去の方が重いです。これは僕が日本史好きな事に基づいている自分の生き方です。

Vtuberという文化の未来を占う記事を今後投稿しますが、その前に過去を振り返り、色々な事があって、結果こうなっているという風な書き方をしたいと思います。

僕はVtuberはあまりに主語が大きすぎるので、少しずつ噛み砕いて、皆さんにお見せできたらいいなと考えています。

ネット文化の「揮発」

文化というものは最初は濃い色をしています。しかしそれは支流にすぎません。歴史と時間という川の流れは次第に太くなり、大海にいたり、次第に蒸発して、気体となります。気体になってしまった文化は、どこにでもあって、どこにでもないものとして扱われます。これが、「文化」が「当たり前」になる過程であります。

基本的にネットコンテンツは寿命が短いとか、衰退した、とかそういう言われ方をしますが、僕は「揮発した」という言い方をします。文化は一般化することにより、色を失い、人々の生活に当たり前に組み込まれます。

Vtuberも今でこそ珍しい文化として扱われますが、次第に人々の心の中で当たり前になります。人々が「総アバター化」する事により、またあらゆる人が発信する事により、平滑化が進み、動画を作ったり、配信したりする行為が別の行為に置き換えられるようになっていけば、Vtuberという文化は揮発していきます。

僕はVtuber文化から分離しつつあるVRchatの方が、将来性が高いと考えています。

この文化の揮発という言葉は、次回より詳しく解説して、Vtuberの行く末と結びつけましょう。という訳で明日書くことが決まりましたね。

今日は僕のVtuber文化論の出発点です。毎日投稿します。僕自身少し楽しみです。最後まで読んでいただきありがとうございました。

それでは

インターネットを渡り歩いてまだ6年、色々なカテゴリを楽しみ、「消費者」として生きています。 そんな文化の消費者の毎日思ったことアレコレを書いていきます。雑記。