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【吉備路を往く①】地図にない祭祀堂~義民喜兵衛様を訪ねる~

岡山駅より、宇野バス「高島・東岡山方面」に乗り、東支援学校を通り過ぎてすぐ。ここは旧山陽道の通っていた地区で、江戸時代から村がある。
名前を「土田村」という。
この地区には代々言い伝えられてきた、ある悲しい昔話があるという。

現在の土田地区

私がその話を知ったのは、1970年にRSK山陽放送で放映された「村の犠牲6人」という特集を見る機会があったからである。
そこでは古くからの言い伝えを話す老人と、大正時代に建てられた祭祀堂の映像が映っている。
私はその地区と祭祀堂が現在どうなっているのか知りたくなった。

この祭祀堂は、googleマップに記載がない。Yahoo地図では「喜兵衛大明王菩薩」の名前で記載がある。しかしそれに通じる道路がなく、祭祀堂だけ浮いているようになっていた。

この言い伝えを詳しく書いているWEBサイトは1つしかない。
2007年に作られた、「竜之口地区電子町内会」というサイトの、郷土の歴史コーナーに、神社や行事などと共に「喜兵衛さま」というページが設けられている。

このページには、こう書かれている。

今から351年前の江戸時代、岡山藩主池田光政のとき、承応3年(1654年)7月19日、台風と豪雨により旭川が決壊し、岡山城下では4千戸の家屋が破壊・流失して、郡部も大被害をうけた。土田村も大災害にあい、大飢饉に見舞われた。稲は白穂になり、ほとんど収穫皆無の状態になった。村民は草の根まで食べて命をつないだと伝えられている。この時でさえ、藩から、所定の年貢を反当り5俵納入するよう迫られ、完納できないときには責任者が入牢1年という掟になっていた。日ごろの村の世話役も、このことまで責任を取るわけにはいかないとなり、議論の末、改めてクジ引きで担当責任者を決めるしかないということになり、クジ引きの結果喜兵衛さんが「ビンボウクジ」(「悪クジ」)をひいた。喜兵衛さんは、米納入につき村の代表として全責任を負うことになった。無いものを納めるわけにはいかない。その代わり1年間牢獄入りとなる。村人の代表とはいえ入牢は栄誉なことではない。喜兵衛さんには妻子5人の家族があり、その生活をどうするか。喜兵衛さんは、いろいろ考えあぐんだあげく、勇気を出し思い切って名主のところへいき嘆願した。「年貢を負けてもらうよう計らっていただきたい」。名主は「順序が違う」とにべもなくこの願いをはねつけた。喜兵衛さんは悩みぬいた。もはや妻子5人の処置と自決しかないと思い定めた。次の年、1655年春まだ浅い日、先ず妻子5人に手を下し、自害した。喜兵衛様は村人の代表・年貢納入者として、土田村民の身代わりになった。

大明王・菩薩 喜兵衛様(岡山市土田福寿会)から

これが、土田地区に370年、ずっと住民に伝えられてきた、悲しい昔話なのだという。他の村人たちの身代わりに、自分と家族の命をささげるという、凄惨な出来事を伝えている。

しかし、このサイトは本当だろうか。
googleで「喜兵衛さま」と検索しても、このサイト以外に伝えるものがなく、このお話に関する情報は、インターネット上に殆ど存在しないのだ。

この竜之口地区電子町内会のサイト、郷土の歴史コーナーのほとんどは、岡山県立図書館の情報を参照しているという。土田地区町並みウォッチングという記事では「制作・岡山県立図書館」と書かれている。
私は、県立図書館に行けば情報が手に入ると思い、さっそく県立図書館に赴いた。

司書さんに「喜兵衛さんについて調べたい」と告げると、2冊の冊子と2つの新聞記事を探し出してくださった。
その2冊は地区の公会堂が1977年に制作した冊子で、喜兵衛大明王菩薩のエピソードが、WEBサイトと同じ内容で載っており、ついでに「言い伝えしかなかったものをこうして文章に残せることは喜ばしい」というような内容が書かれていた。

続けて2つの新聞記事は、2007年以降の祭祀堂に関するものだ。
2010年の山陽新聞「輝いてまち・人」には、祭祀堂の前に言い伝えを紹介する立て看板を設置したことを伝える記事だ。

2010年に設置された立て看板

2つ目は2016年5月13日の山陽新聞「うちモノ語り」の記事である。祭祀堂が建てられたのは1925年、流行病の鎮まりを願って、当時の住民たちの浄財で建てられたと書かれている。

どちらの記事にも、300年以上前の言い伝えを大切に守り、後世に語り継ごうとする住民たちの願いが窺える。

私はここで図書館での調査を終え、現地を訪れることにした。
バスに揺られること30分。土田地区は旧山陽道の面影も残しつつ、新築の住宅も混じって立ち並んでいた。

「土田東」バス停を降りて北の山の方に進むと、道は細くなりアスファルトではなくコンクリートで舗装された道に変わっていく。
地図をアテにせず、現在地とサイトに描かれた地図を重ね合わせせて坂を登った。

民家の群れを通り過ぎると畑のある区画があり、そこに倉庫のような建物があって、喜兵衛さんの祭祀堂と墓地を指し示す看板が書かれていた。

喜兵衛さんの祭祀堂を示す看板

この看板を見て振り返ると、細い道の奥に祭祀堂があることが分かった。
長さ4.5mの小さな祭祀堂だ。

喜兵衛様祭祀堂

これこそ探し求めた、村の言い伝えを守る住民によって建てられた祭祀堂である。壁や屋根は修築が進んでおり、掃除は行き届いて綺麗になっていた。住民たちが丁寧に扱っていることが分かる。
入口には「義烈哭鬼神」と書かれている。「鬼も泣いて悲しむほどの人格」という意味だという。

偶然、道の掃除をされていた年配の男性にお話を伺うと「祭事などはやっていないが、掃除とかはずっとやっている」とお話をされていた。
「喜兵衛様のお墓も、その奥に私の先祖の墓があるもんですから、お墓参りついでに拝んでいくんです。あなたもぜひ拝んでいってください」
そう仰る男性にお礼を言って、私は喜兵衛さんのお墓にお参りに行くことにした。

山道を進むこと150m。地域の墓場の入り口に、喜兵衛さんのお墓があった。喜兵衛さんと一家、全部で6人のお墓だ。

喜兵衛さんと一家5人の墓

喜兵衛さまのお墓に「どうかこれからも村をお守りください」とお願いをし、私は地区を去った。

村の守り神として民間信仰の対象となった、義民喜兵衛とその伝説。そしてそれを代々守り続け、後世に伝えようとする住民たち。
ここに住む人々の歴史の温もりを、忘れないようにしよう。

「吉備路を行く」シリーズでは、こうした世間一般からは知られていない、岡山や備前備後地域の歴史や文化を、少しずつ伝えていく予定だ。
次回もお楽しみに。


インターネットを渡り歩いてまだ6年、色々なカテゴリを楽しみ、「消費者」として生きています。 そんな文化の消費者の毎日思ったことアレコレを書いていきます。雑記。