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日常の行為の中でする瞑想――超作(ちょうさく)という名の瞑想行5:ポンチ井の頭

まずは、本山博が以下のような超作が出来ている場合の自己判断基準を示している。

超作ができているかどうかの七つの基準(以下、本山博『仮想から現実へ:コンピュータ時代における良心の確立』宗教心理出版、1998年、第2章5B〔133~138頁〕から抜粋)

  1. 個性をもった他人をそのままで認め、受け入れることができるかどうか

  2. 他の人と共存ができるかどうか

  3. 働きの上で、他の人と一つになれるかどうか――チームワークでぴったり息が合うかどうか

  4. 適切な時期に、その人がまさに進歩しようとする時に、適切な忠告ができるかどうか

  5. 自然を魂あるものとして感じられるかどうか

  6. 人びとを助ける愛と智恵が自分の中で働いているかどうか

  7. この世の中で一生懸命に仕事をしながらそれらをまるきり離れた心があるかどうか

一つ一つとても難しい内容であり、本来なら抜粋などせず全文を載せるべきであろうが、あえて、批判を恐れずこのようにしたのは、全体を俯瞰し、理解し易くする目的のためである。

さて、これらの中から読み取れるのは、他との協調・調和、利他行、愛、智慧、結果に囚われない、などであるが、一つの特徴としては他者との関わりに関する項目が7つのうち5つを占めている。

さらに自然まで含めて他者とするなら6つとなる。唯一7.だけが、超作の修行論的要件である。このことから、徹底的に利他行を行うこと、これがまず超作の極意であると言ってもよいのではないか。

それともう一つ、重要な点であるが、神様からの感応、働きかけに関しては、この判断基準の中には一切入っていないことである。

もちろん本山博は、神様がしてくださる、ということは繰り返し述べているので、神様のお力による何らかの働きかけがあるのは大前提であるが、前記判断基準の中に述べられていないということは、とりもなおさず、個々人(もっと言えば私のような凡人)は超作は出来たとしても、神様のお力添えは直接には殆ど感知できないということではないだろうか。

つまり、このことから仮説1のナイーブな意味での傍証となるのではないかと考えている。
次回、さらに傍証はないか、考えてみる。