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柿:ハレ

こんにちは、note担当のAMです。
今回は、ハレさんの、自宅の柿と「行為になりきる」ことについての随想です。


私の家は戦前まで番傘を作っていたそうです。
と言っても今では番傘一本残っているわけではありません。
子供の頃は、痕跡として番傘に塗る柿渋を採るための渋柿が庭に何本かありました。
15年程前に家を建て替えたときに何本か切り、今では一本しか残っていません。

今年はその柿の木に何年か振りで沢山の小さな実がなりました。
母が元気な頃は木の剪定、消毒を怠らず、母が一人で毎年千個以上をさわし柿にしていました。
今では剪定も消毒もせず放っており、ここ十年以上、毎年、僅かに実った柿が熟して柔らかくなったものを人と鳥が競争で食べていました。
妻は鳥が苦手で、鳥が柿の実を取っていくと一人で怒っています。
まぁ、鳥も食べていかなくては、と思いますが、余計な事を言うこともないので黙っていますが…。

今年は沢山採れたので干し柿にしました。
5~7センチ程度の柿ですが、小さいのは剥くのも手間です。
この時、玉光神社の教えで推奨する「行為になりきる」を実践しました。
正確には「実践」ではなく「訓練」ですが。

玉光神社宮司・本山一博は龍樹の『中論』を引用し「行為」と「行為者」と「行為の対象」は本来不可分であるにも関わらず、私たちはそれぞれを分断されて独立したものとして認識しており、結果、集中しようという対象とは一体になれず、そこに煩悩が生まれると説きます。
この柿剥きにおいて、私は剥くという行為になりきります。
「剥くという行為」、「剥く対象である柿」、「剥く主体の自分」は一体で不可分ですから、「行為になりきりたい」というような「剥く」という行為に関係のない思いは捨て、「剥く」という行為に集中する。
そうすると深い瞑想状態で柿が剥けてあっという間に完成…となればいいのですが、現実は、余りのナマクラ包丁で、何本も取り替え、それでも駄目で包丁を研ぎ、遂には以前友人に包丁を貰ったのを思い出し新品の包丁で一日が過ぎていきました。

ただ、このように行為に集中しようというような思いは捨て、単に行為に焦点を当てて行為のみに集中すれば、切れない包丁に腹を立てることも忘れ、淡々と包丁を取り替え、淡々と砥石を持ってきて研ぎ、淡々と新品を下ろしと淡々と作業が進んでいくように思います。

「柿が赤くなると医者が青くなる」といいますが、今年の私の場合は食べ過ぎないように気をつけねばです。