見出し画像

はじめまして(自己紹介あるいは「絶対の宗教はない」ことについて)

はじめまして。
玉光神社のnote担当のAMと申します。

玉光神社は東京・三鷹の井の頭公園のすぐ隣にある神社です。
玉光大神を主祭神として祭り、世界平和や人々の所願成就を日々お祈りしています。
また、神社には珍しく瞑想を指導したりもしています。

瞑想指導をしていることからも分かるように、玉光神社は、いわゆる「神社」(神社神道)ではなく、「新宗教(新興宗教)」です。

「新宗教」は怖い?

「新宗教」は、特に評判が悪く、怖い、危ないと思われがちです。
「新興宗教みたい」という比喩は、貶し言葉であり、残念ながら誉め言葉で使われているのを聞いたことがありません。

「新宗教」が怖い、危ないと思われる原因の一つは、「自由」がなくなるように見えるからだと思います。
皆で同じ動作をして、皆で同じ言葉を唱えて、皆で同じ感情を持つ。
漫画などでもよく、宗教団体の信者は、張り付いた仮面のような笑顔で表現されることがあります。
(最近だと、『呪術廻戦』という漫画に出てくる「盤星教」という宗教団体の信者も、とんでもない状況で、みんな笑顔で拍手していました。)
どんな状況であれ、思考を停止して、みんなが笑顔というのは、確かに気持ち悪いですね。

これらは「宗教」の怖さというより「組織」の怖さなんですが、ともあれ、宗教は多くの場面で「自由」に振る舞うことを許しません。
私たちの神社でも、お祭りのときに走り回ったり、おしゃべりしたりすることは許されませんし、祝詞を唱える時には頭を下げねばなりません。
何より神様には最大限の敬意を払わなければなりません。
それに、神社独自の伝統的なルールだってあります。

「絶対の宗教はない」

それでも、玉光神社の中では、出来る限りの「自由」が許されてほしいと思っています。
お祭りやイベントに強制的に参加させられることはありませんし、義務もありません(会費はありますけど)。
一人でひっそりとお参りに来てもいいし、他の信者さんと楽しくおしゃべりしてもいいです。
あるいは遠方にいて、遠くから祈るだけでもいいですし、機関誌や神社関連の本を読むだけでもいいです。
信者一人ひとりが、玉光神社との距離を自由に選択できるのはもちろん、意見も自由に考え、表明することができます。
笑いたければ笑えばいいですし、泣きたければ泣くこともできます。

教えの中にも「人の世に完全といふものなし」と謳われていますし、初代宮司・本山博は「絶対の宗教はない」と言っています。
村上春樹風に言えば「完璧な宗教などといったものは存在しない、完璧な絶望が存在しないようにね」ということです(?)。
「絶対」や「完璧」がなければ、常に変わり続けなければいけませんし、変わるためには「自由」が必要です。

これらからnoteで記事を書くにあたって

これから玉光神社は、このnoteにおいて、私も含め、職員をはじめとする有志による日記や随筆を載せていきます。
週一回くらいのペースで、日々の出来事や思い、あるいは教えや行事などについて、「自由」に書いてもらう予定です。
ですので、玉光神社の公式noteですが、内容的には公式な発言ではなく、基本的には個人的意見を綴ってもらう予定です。
(とはいえ、玉光神社に責任がないわけではありませんが。)

とにかく、玉光神社とは何か、どういう人がいるのか、
参加したら何が学べて、何を得られるのか、
そういったことが伝わればと願っています。

あるいは、単に新宗教の「リアル」が知りたい、という方も、是非読んでいただければと思っています。

私もどうなるか不安と期待が入り混じっていますが、
ぜひ、読んでいただけるとありがたいです。
どうぞよろしくお願いいたします。

記事を通して、玉光神社の活動にご関心を持っていただければ、下記ホームページをご覧ください。
信者以外の方が参加できる行事もありますので、お気軽にお問い合わせください。