見出し画像

日常の行為の中でする瞑想――超作(ちょうさく)という名の瞑想行3:ポンチ井の頭

前回は、超作について3つの疑問を挙げた。再度その3つの疑問を示す。

(疑問1)少なくとも私の周りには、(私も含めて)超作は分からない、難しいという人だらけである。それは何故?
(疑問2)倫理性、愛、智慧はともかく、誰かの役に立つ(であろう)ことを一生懸命、それこそ人生を賭してしている人は沢山居る(た)はずだ。そういう人で、自分は神を感じた、神懸かったなどという人は聞いたことがない、何故?
(疑問3)超作というものが本当にあるなら、他の著名な宗教家たちが殆どそのことを言っていないのはなぜ?

これらの答えの糸口として、この3つの疑問に答えることの可能な2つの仮説を立てたい。それは、
(仮説1)超作はある。しかし、超作における神様の感応は極めて精妙かつ霊妙で、凡人の感覚では到底感知出来ない。
(仮説2)超作はない、または、あっても極めて稀。そんなに簡単に経験できるものではない。例えば、いわゆる聖人と呼ばれる人たち位しか体験できないような現象。

このような2つの仮説を立てれば、一応どちらも先の3つの疑問の答えにはなっている。しかし、仮に仮説2が正しい答えだとすると、この考察はこの回で終了せざるを得ない。何故なら凡人の私には、そしてこれを読んでくださっている読者の殆どの人には超作は逆立ちしても経験出来ない現象だからである。本山博がこの世に居ない今、私の周りには誰も体験したであろう人はいないし、ほとんどの人は経験できないのであるから、これ以上の考察はしても意味がない。

ということで、唯一考察が進められるのは仮説1である。超作は比較的誰でも経験できるが、神様の感応が霊妙なため、なかなか感知できない、超作をしているという実感が伴わないという、仮説1を検証してゆく。

次回は、超作の対象は何?というテーマ。