はじめまして#2ーしごとの旅(1)
形を変えても、場所を変えても、やり方を変えても。
ずっとずっと同じ、一本の道を歩いている。
そんな、 "しごとの旅" です。
* * *
どうして、道路はアスファルトで覆われているんだろう?
6歳くらいの頃に、不思議で不思議で仕方がなかったこと。
この頃のわたしは、わけもなく、原始時代に憧れていました。
今ならわかるその理由は、おそらく「人間が生態系の一部だった時代」への憧憬の念だったと思います。
母が台所でお料理するのを見ながら「作り方がわからない調味料は、わたしには使えない」と、決心するような、少し(とても???)変わった子どもでした。
何が、何から、どのように作られて、今、ここにあるのか。
その「つながり」を理解することが、幼な心に、とても大切だったのです。
学校に上がる前は、目に見えない世界で遊んでいて、石やお花や、妖精や魔女や、幻想や物語の世界にいるような、夢みがちな子どもでした。
その延長か、小学生になると、美しいものに心惹かれ、国内外のインテリアやファッションの雑誌を眺めては、ワクワクしていた記憶があります。
日々の「暮らすこと」を、彩るものや、慈しむことが、とても大好きでした。
そんな中でも、はっきりと覚えているのが、小学校5年生のとき。
1992年、ブラジルのリオデジャネイロで開かれた、地球サミットです。
「われら共通の未来 Our Common Future」「宇宙船地球号 Spaceship Earth」など、のちに、大学の授業でも学ぶことになる言葉に初めて触れたのも、この頃でした。
11歳のわたしは、幼い頃からずっと心に抱いていた、環境への危惧を、世界中の大人たちが、地球の裏側で真剣に議論しているということを知り、とても心強く感じたことを覚えています。
それでも、環境問題はあまりに膨大で、ちっぽけな自分には何もできないように感じ、無力感から、そのことについては、無意識に、ふれないように、見ないようにしていたように思います。
中学にあがると、友達の話はほとんど「男の子の話」か「部活の話」、「先生の悪口」になりました。不平不満と、それに同調することでつながりを確かめるような関係性は、静かにわたしの心を蝕みました。
本当に分かち合いたい心のうちを話せる友人はおらず、
思春期のわたしは、家に帰っても、同居の祖母や、父、母、兄の存在を疎ましく思い、
「誰もわかってくれない」
「どこにも居場所がない」
「本当の話ができる人がいない」と、
(心を開けば、そこに確かな居場所があり、友人はいたにもかかわらず、、、)
ひとりで、孤独感を極めていました。
何にもやる気を感じられず、無為に過ごす毎日。
いつしか
「なんのために生きているんだろう・・・」
と、深い問いの思索に溺れ、自分のいのちの意味を全く感じられなくなっていきました。
この頃を思い出すと、わたしの世界は、真っ暗でした。
そんなわたしに、人生最大の転機が訪れたのは、中学2年生の時でした。
(つづく・・・)
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