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君がいて僕は嬉しい②

 クリーム色のシーツの掛けられた広いベッド、アンティークな水色の3人掛けのソファ、白っぽい木製の背の高い本棚、小さなテーブルと2客の椅子…が静かに、落ち着いて置かれている。部屋は生まれたての赤ちゃんのように明るい。まるで明るい光が今にもあふれ出しそうなのだ。壁際に置かれたベッドの上の方に窓があり、水色の空が映る。空間がそこだけ裂けているようにも見える。
 この部屋のように私も落ち着いている。それなのに、今にも気を失いそうな上ずった気分もある。うかうかした奇妙な気分だ。
「俺の好きな感じの部屋だ。そしてとても神聖な感じに見える。不思議だ」
それに対し、私も神妙になって
「神聖?なるほど。その単語について私もさっきからずっと考えていたところだった。というのは、佐伯君ってまるで神様の一人息子っていう感じね。神聖だわ」
 ベッドに二人で並んで腰を下ろし、しばらく黙った。何か言わなければならないという思いもないけれど、胸にある何かを捕まえようとすると、サッと逃げらればかりいる。きっと佐伯君もそうなんだろう。なぜかその推測が確信めいていた。
 
 「ところで佐伯君、私ね、不思議だなって思うのが、例えば嘘は嫌だとか、勤勉、優しさ、愛…生まれつきの、教わったわけでもないような気がする価値ってあるでしょ?日本ではそれを表向きにさえも堂々とそれを目指さない、斜めでいなければならない感じがあるわよね?何故なのかしら?わかる気もする…けどよく自分に素直になって胸の中を点検してみると、私には全然わかんない」
「だね。そしてそれは日本だけだな」
「あからさまにならない。突出しない。ほどほどを守る。
 おかしいわよね。日本ではなんでも自意識にぐるぐる縛られ、不自由なさまを高級と呼ぶ。おかしいわよ」
「まったくだ」
「隣の家と自分の家が似ているし、家の中もよく見える…相互に監視し合う。叩き合う、皆自意識の病よ」
「よくわかるよ、つまりそれってさ…」
何もかも入学式を済ませたばかりだという感じだ。慣れないが普通の日常だと自分に言い聞かせながら、すべてを扱う…、佐伯君は質問をし、私は時々止まって考え込む。そしてまた話し出す。佐伯君が思いもよらない着想について、汗を浮かべて説明を始める。私はプロフェッショナルなショーの観客のような気持でそれを聞く。
・自意識を捨てるには?
・ミックジャガーのダンスを真似るには?
・意識とは?
・愛とは、優しいか?
・誰かを振るということについて。
・アートは人を愛すか?
・技術とアイディアと人間
・傑作を狙う惨めな奴ら
・アイデンティティの補強にアートを使う奴
・習字がうまくなるには・
・論理と言葉
…そんなことを夕方まで話した。お昼にサンドウィッチを食べた。いくらでも食べれるような、もう食べれないような気持で平らげる。最高に美味しいと佐伯君が感想を言った。

音楽を掛けるのを私は忘れた。外の音が入ってこない。
もしかしたら今外は吹雪だ。或いは、川が決壊し、すべてを水に浸してる。津波が私たち以外をみなどこかへ流し去った。生き残ったモーゼがひとり、つまらなそうにタバコを吸っている。
時間が経ち、夕方だが、私たちに関係あるのだろうか?人がどう暮らしているのかよくわからなくなってきた。小説とはフィクション、つまり作りものだとふと考えた。

佐伯君は時折涙ぐむことがあった。どうしたのだと尋ねると、悔しいのだと答える。
なんだかもったいないことをしてしまった、自分が彗星みたいにすっと消えるってことが今苦しい。もどかしてく仕方がない。今までこんなことを思わなかったんだけど。
そう落胆する佐伯君を私は慰めたくて仕方ない。興奮した口調でアドバイスしたり、涙を流しながら大丈夫よと言ったりした。
 佐伯君の痩せた、けれど男らしい大きく硬そうな背中に手を置いた。佐伯くんは白いTシャツを着ていた。その温かく、肌に馴染んだ柔らかい生地の上を撫でた。生地を隔てて佐伯君の体がある。私は、突然悲しくなって手を止めた。人には悲しみをキャッチする神経細胞が備わっていることを教わってしまったというふうに。背中に手のひらを置いたまま、じっと考え込む。
「どうした?」
「いえ、悲しくて」
「何が?」
「いや?まあ?そうね?」
「なるほど。俺もそう。わかったよ」
佐伯君が私の方を向いて、私の体を両手で掴んで、嚙みついた。私はあっという間に裸になっていた。もどかしげな佐伯君も、いつの間にか裸だ。
太刀打ちできない。大雨が降ることに抗えない。そしてとても嬉しい。私はその自然災害に遭い、佐伯君に…「嬉しくてしょうがないの」としがみつくしかできない。どうしたらこの気持ちを言えるだろうと切実に悩みながら。

小説を書きながら一人暮らしをしています。お金を嫌えばお金に嫌われる。貯金額という相対的幸福には興味はありませんが、不便は大変困るのです。 ぜひ応援よろしくお願いします!