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どのようにして「インドネシア国家」は成立したのか

21世紀の大国として注目されるインドネシア。
そこに住む人は「インドネシア人」ですが、厳密に言うとインドネシア人という民族は存在しません。
インドネシアは、ジャワ人やスマトラ人、バリ人、アンボン人など、約300の民族から成る多民族国家です。

私は2013年にバリ島からジャワ島まで長距離バスを使った横断旅行をしたことがあるのですが、バリ島からジャワ島に渡った後、まるで外国のように町や人の雰囲気が違うことに驚いたものです。

国としてのインドネシアが出来たのは最近のことで、かつては海や川、山など自然の国境で区切られた地区の中でそれぞれ独自の統治が行われる小国家群の集まりでした。今回はそのような国家群がどのように「インドネシア」となったかを見てみたいと思います。


1. 人が自由に往来する港市国家群

インドネシア西部は古来から中国とインド、そしてアラブ世界を繋ぐ重要な水路でした。
特にマラッカ海峡は交通の要衝であり、各地を行き交う船が碇を降ろす港湾施設が求められたため、多数の港市都市が形成されました。

取引量が増えればそれだけ儲かるため、これらの港市都市は互いに勢力争いを繰り広げますが、この海の流通網はヒト・モノ・カネの交流を促し、多様な住民集団が絶えず広大な海域を行きかい、港には様々なエスニック集団が存在したため、 港市国家とそれに所属する人びとに外界に対する開放的な気質を与えました。

またインドからもたらされるヒンドゥー文化はこれらの港市都市に共通の文化圏を形成し、インド的な権力概念を浸透させることになりました。

インドの王権には国境の概念はありません。
王国の周辺は権力が強く明確な影響範囲だけど、距離が遠くなるに従って段々影響が弱くなっていって、辺境になると影響範囲だかどうだか曖昧だけど、まあウチの支配下なんじゃね?くらいのかなり曖昧なもの。
この構造はこれら港市都市国家群の秩序にも適応され、強い1都市国家が王権の中心をなし、その周辺の都市国家が距離や経済関係、血縁関係に基づき、強く従属したり弱く従属したりする、というマンダラ的な国家秩序が取られました。

例えば14世紀には王権の中心はマラッカ王国にあり、その周辺にあるパサイ、ペラック、パハン、ジョホール、カンパルといった王国がゆるく従属していました。
時代によってこのマンダラ構造は移り変わり、周辺部の王国が中央の王権にのし上がることも、その逆もありました。

2. クローズな農業国家・ジャワ

一方で、現在のインドネシアの中心を成すジャワは、オープンな港市都市国家と異なるクローズな社会の歴史を歩みました。
現在のインドネシアの面積は190万平方kmですが、わずか13万平kmのジャワには人口の半分近くが住んでいます。

ジャワ島の東部には豊かな水田耕作地帯が広がる一方、西部は不毛な石灰岩の山地が広がり海の世界から切り離されていました

そのためジャワの人びとは外界から閉ざされ、豊かな農業力によって安定的な権力を成立させてきました。
ジャワの王権は最初中部に成立し(マタラム王国 8-10世紀)その後東に移動(シンガサリ王国 13世紀)。北部海岸地帯に移動して海の世界と一時的につながりますが(マジャパヒト王国 13-16世紀)、イスラム勢力と結びつき再び中部に帰っていく(マタラム=イスラム王国 16-18世紀)という歩みを見せました。 

ジャワは港市国家群と異なり、自足的で閉ざされた空間となり、内向的な独自の文化が華開いたのでした。

3. オランダ支配による変化 - 港市国家群

 15世紀に港市国家群の王権を握っていたのはマラッカ王国でしたが、マラッカは港市国家のイスラム化の中心的役割を果たし、交易拠点は次々とイスラム化していきました。そして16世紀以降、この地域にヨーロッパの貿易船がやってくるようになります。

当初はポルトガルが、後にオランダが本格的に香辛料貿易の独占に乗り出しました。
オランダは当初は島々への領土的な野心は低く、海上交通ルートの掌握にその狙いがありました。 オランダ東インド会社は、香辛料を搬出する港とそれらを本国に送る貿易港と交易ルートを抑えるため、要塞や軍港、兵の駐屯地を設けていきました。
その中で開かれたのが、オランダ東インド会社の拠点地のバタヴィア。これは後のジャカルタです。
バタヴィアはジャワ島北西部にあり、海の世界とジャワ世界のちょうど中間にある地帯。このバタヴィアの存在は後にインドネシア国家の成立に重要な役割を果たしていくことになります。

4. オランダ支配による変化 - ジャワ

ジャワの豊かな農業生産力に注目したオランダは、その影響力を中部ジャワへも広げるべく画策します。
当時中東部ジャワを支配していたのはマタラム王国で、スルタン・アグンの治世下で繁栄していましたが、度重なる内紛を繰り広げていました。

オランダはそこに付け入り、調停役として紛争に介入。その見返りとしてマタラムの領土を徐々に併合していきました。1755年にはギヤンティ条約によってマタラムの領土の半分を割譲。さらにオランダ東インド会社は、反乱の首謀者であるマンクブミ王子を担ぎ、自分たちの息のかかった新しい王権を建ててしまいました。

後にこの王権は4つに分裂。ただしオランダが政治的な対決を封じていたため、彼らは文化的な分野での対決を繰り広げ、ジャワ的な雅の文化が急速に発展していくことになります。

争いがなくなったことで戦闘集団の必要性がなくなり、官僚組織が発達。彼らはオランダ植民地の手足となっていきます。またオランダはプランテーションを各地に開き、タバコや甘藷などの大規模栽培に乗り出していきました。

5. 領域の確定と制度・インフラ整備

19世紀初頭、イギリスはオランダがインドネシアに持つ権益を奪おうと画策し、地場勢力と結びながらあの手この手でオランダの牙城を崩そうと試みました。
ところがナポレオン戦争が勃発し、イギリスは本国の防衛のためにオランダの力を借りる必要が出てきました。

しょうがない、ここでオランダに貸しを作っておく必要もあろう。という感じで、1824年に両国で英蘭協定が成立。これは、東南アジア海域での両国の勢力圏を定義する協定で、

  1. オランダはマレー半島から撤収しマラッカをイギリスに割譲すること

  2. イギリスはスマトラをオランダに割譲し、この地域の勢力と新たに協定を結ばないこと

ことが確定しました。

この歴史的意義は大きく、これまでマレー半島とスマトラは言語もマレー語を話す同じ文化圏に属していましたが、英蘭によって異なる地域に分割されたことによって、のちのマレーシアとインドネシアという異なる国となっていきます。

19世紀以降、オランダはアチェ、バリ、パドリなどの在郷勢力を駆逐し島々を征服。20世紀初頭まで、スマトラ島から西ニューギニアにまで至る、現在のインドネシアの版図を獲得します。一方でこの広大な植民地を運営するためのインフラと官僚機構の整備を急ぎました。

バタヴィアの植民地政府をトップとし、末端は村落単位にまで収斂するヒエラルキーの行政区画を整備。上部はオランダ人が占めますが、下部は既存の在郷勢力を通じた間接支配を行われました。

各州には州都が建設され、バタヴィア政府の出先機関として末端組織を管理。これまでのゆるやかで曖昧な国家概念とは全く異なるシステムによる秩序が築かれていきます。

1862年にジャワで鉄道が開通。1888年には200kmだったのが、1924年には4200kmと急速に広がっていきました。また各地を繋ぐ定期船も開通。1890年代までに植民地各地を結ぶ巡航ネットワークが開通。1902年には日本までの長距離航路が開通したほか、1910年にはオランダ本国とバタヴィアを結ぶ週一の定期便が出るようになります。

その他、道路、航空路、郵便、電信、電話、ラジオ放送など、インフラが植民地各地につくられていくことで、これまで外界とのつながりのなかった地域同士の接触が進んでいくことになります。

6. 民族・文化融解のハブとなった都市

 都市は植民地各地から集まった人びとによって、新しい形の共同体意識を生み出すことになりました。それは例えば、各地からの学生が集まる「大学の同窓」だったり、植民地政府や企業で働く「組織の仲間」といったものです。

中心都市バタヴィアは、多様な地域からやってくる人たちを「我々の空間」として認識させ、またオランダ領東インドという地域を「我々の土地」という概念で認識させることにもつながったのでした。

19世紀末ごろから、バタヴィアでは大衆文化が発達。農村の風景画、クロンチョン音楽、民衆演劇、大衆小説など多くはバタヴィアで生まれ、上京した人々によって各地に持ち帰られ、「いまバタヴィアで流行ってるイケてるやつ」みたいな感じで各地に定着していきました。

それらは多くはマレー語で書かれ表現されたので、マレー語が後のインドネシア語の母体となっていきます。さらに、バタヴィアで流行ったライフスタイルも各地に散っていき、各地の慣習の上に重なっていきます。洋服、読書、旅行、映画、オランダ語を取り入れた日常会話などが挙げられます。

このように、各地から集まった人から成る都市を中心として文化や共同体意識が作られ、後の「インドネシア」という、漠然としながらもある程度は共通性のある地域として認識されるようになっていったのでした。

まとめ

こうやってインドネシア国家の成り立ちを見てみると、よくも悪くもオランダ無しでは存在し得なかったに違いなく、帝国主義の力が及んでなかったら、これらの地域は1つの国家としては到底統合し得ません。
ひとつのインドネシアという民族主義を進める一方で、その体はオランダによって作られたものであるという矛盾。

そこにインドネシア・ナショナリズムの危うさが潜んでいるような気がしてなりません。

参考文献:世界史への問い9 世界の構造化 岩波書店 

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