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史上最も短命な国家ベスト10

日本という国は有史以来、国体の継続性を保っているということに一応なっていますが、現在の日本国政府の発足は1952年のサンフランシスコ平和条約からなので、日本国は72年間続いていることになります(2024年現在)。

たったそれだけか、と思う人もいるでしょうけど立派な方で、歴史上には1年どころか1ヶ月ももたなかった国がいくつもあります。


 10位:バイエルン・レーテ共和国(1919年4月6日〜5月3日 27日間)

第一次世界大戦中の1918年10月29日、ドイツ艦隊の水兵1,000人の出撃命令拒否から、ドイツ全土で労働者の暴動が発生。ドイツ革命が勃発し、後に皇帝(カイザー)が退位しドイツ帝国が崩壊しヴァイマル共和国が成立するのですが、ミュンヘンを中心とするバイエルン王国では独自の革命が進行していました。
11月8日、独立社会民主党の党首クルト・アイスナーが「バイエルン共和国」の成立を宣言。アイスナーは純粋な穏健的な左派で、政策的には大多数の保守的な人びとに支持されるような人物ではありませんでしたが、彼は巧みにバイエルンに根強い「反ベルリン」感情を利用し支持を得ました。
1919年2月21日にアイスナーが右翼青年に暗殺されると、人びとの同情を得た独立社民党が立場を強めました。

そんな中4月6日、独立社民党のエルンスト・トラーによって革命が発生。ミュンヘンからバイエルン政府は駆逐され、ソヴィエト政権であるバイエルン・レーテ共和国が成立しました。バイエルン共和国政府は北部バンベルグに逃れた後、反転攻勢で一時はレーテ共和国を倒すも、4月13日に再びレーテ共和国がバイエルンの全権を掌握。これにはソ連で革命を経験していた革命家が賛同しており、レーニンもハンガリーに次ぐ2番目の共産主義輸出に力を入れていたそうです。

ところがこれを聞きつけたベルリン政府は国軍と義勇軍合計6万を率いてバイエルンに侵攻。3日であえなく全土は制圧され、5月3日にレーテ政府は崩壊しました。

9位:カリフォルニア共和国(1846年6月14日〜7月9日 25日間)

1821年、スペインから独立したメキシコは北西アメリカの大半から中米までを支配する大国で、現在のカリフォルニアも「アルタ・カリフォルニア州」と呼ばれるメキシコの一部でした。
当時の新生メキシコ国家は移民を歓迎しており、無償で土地が与えられたのでアメリカから続々と移民が押し寄せました。ところがあまりにも移民が来すぎたのでメキシコ政府はアメリカからの移民を締め出し始めました。

ところがあまりにも移民希望者が多かったのでメキシコ政府は暫定的に、3ヶ月の間に居住認可を得られない者は出ていくという条件で入国を許可しました。当然ながら、あまりにも居住認可を得られない者が続出。メキシコ政府は彼らに帰国を命令しますが、これに反発するアメリカ移民は米墨戦争(1846-1848)の勃発に乗じて「カリフォルニア共和国」の独立を宣言。首都ソノマにはグリズリーベアの共和国旗が掲げられ、武装勢力の代表団による共和政府が樹立しました。

しかし1846年7月5日、アメリカ軍のジョン・C.・フレーモント大尉麾下のカリフォルニア大隊が共和国の首都ソノマを包囲。100〜200しかいなかった共和国軍はなすすべなく降伏し、7月9日にカリフォルニア共和国は崩壊しました。

8位:クウェート共和国(1990年8月4日〜8月28日 24日間)

クウェートはもともとイラクと同様にイギリスの植民地支配下にありましたが、1932年にイラクが独立して以降も莫大な石油利権に固執したイギリスと、結託関係にある王家サバーハ家によってイギリス支配は続き、1961年にようやく独立を達成するも欧米や石油企業との太い繋がりは継続されていました。

イラクでは伝統的にクウェートはイラクの領土であるという文脈が強く、クウェート併合論がイラク・ナショナリズムと結びついていました。
そんな中で1990年8月2日、イラクのサダム・フセインは「クウェートの反体制革命勢力を支援する」という名目でクウェートに侵攻。同日中に中枢を制圧して2日後の8月4日にクウェート共和国の成立と、サバーハ王家の追放を宣言しました。

建前上は「サバーハ王家の非道に憤ったクウェート人による革命」でしたが、誰がどう見てもイラクによる強制併合で、首相にはアラー・フセイン・アリーという男が就きますが、彼はイラク国籍を持つクウェート人で、発表された閣僚もイラク人ばかりでした。
8月28日、クウェート共和国政府はクウェートの「イラクへの併合」を全会一致で承認。共和国は解散し、クウェートはイラクの19番目の県「クウェート県」となりました。

その後、湾岸政争によりイラクはアメリカを中心とする国際連合軍に敗北し、再びクウェートもイラクから切り離されて1991年2月26日にクウェート国が復活しました。

7位:コノハト共和国(1798年8月31日〜9月11日 12日間)

 コノハトはアイルランド北西の州で、中世までは独立した王国を築いていました。1500年代後半のテューダー朝のアイルランド征服によって、イギリスの支配下に組み込まれてしまいます。

Work by NikNaks 

1798年、フランス革命の共和主義に触発され、東部レンスター地方で反乱が勃発。
アイルランドの独立を目指す反乱ととる向きもありますが、実際のところは旧社会の不満や牧歌的な理想社会の実現を目指す烏合の反乱で、農民軍はよく組織化され反乱当初はエニスコーズイやウェックスフォードなど主要な街を占領しますが、後に反乱軍同士で宗派の違いによる内ゲバが発生し、各個イギリス軍により撃破され鎮圧されていきました。

東部での反乱が鎮圧に向かっていた8月、ユンベール将軍に率いられた1000名のフランス兵がメイヨー州キララに上陸。8月27日にカステルバーの戦いでイギリス軍を打ち破りました。

 ユンベール将軍はアイルランド人のジョン・ムーアという男を大統領に任命して、8月31日にコノハト共和国の設立を宣言しました。
この時に宣言された文書には「アイルランド共和国」の名前がみられ、ジョン・ムーアも「コノハト州政府の代表」という言い方がなされており、将来的なアイルランドの完全な解放と共和国の設立を目標に据えていました。
しかし2週間もたたずにフランス軍と共和国軍はバリナムックの戦いで、わずか30分の戦いでイギリス軍に粉砕されてしまう。ムーア大統領も拘束され、コノハト共和国は崩壊したのでした。

6位:東ティモール民主共和国(1975年11月28日〜12月7日 9日間)

1859年にティモール島は東西に分割され、西をオランダ、東をポルトガルが支配することになりました。
第二次世界大戦後、インドネシアでは独立戦争が起こり1948年8月にインドネシア連邦共和国が独立。その後オランダ側に残った地域も次々と共和国への統合を果たし、1950年8月17日には連邦制を解体しインドネシア共和国が成立しました。
東ティモールはしばらくポルトガル領として残りますが、ポルトガルの独裁者サラザールが死亡すると1974年に国軍によるクーデターが起こりファシズム体制が崩壊。

雪解けの雰囲気の中で東ティモールも独立の動きが加速し、東ティモール独立革命戦線(フレティリン)が即時の独立を主張しますが、インドネシアのスハルト政権は「東ティモールのインドネシア帰属」を強く主張し、親インドネシア派政党アポデディを支援し統合を目指す構えを見せました。
フレティリンは1975年11月28日に「東ティモール民主共和国」の独立を宣言しました。しかし翌日インドネシア軍はただちに東ティモールへの軍事侵攻を開始。12月7日には全土の掌握を宣言しました。
国連安全保障理事会はこの侵攻を非難する決議が採択されましたが、アメリカやイギリスを始めとした西側諸国はインドネシアとの関係維持を優先して併合を黙認。
その後、東ティモールでは反インドネシアのゲリラ戦が展開され、インドネシア国軍による容赦ない鎮圧戦が繰り広げられて世界の非難を集めることになりました。
1999年にスハルト政権が崩壊すると、インドネシアは東ティモールの統治を国連の暫定統治に委ね、2002年に正式に独立を果たしました。

 5位:フェロー諸島共和国(1946年9月18日〜9月24日 6日間)

フェロー諸島はイギリス諸島の北に浮かぶ北方の孤島で、北西のアイスランドと同様、ノルウェーヴァイキングの末裔が住んでいます。

長い間ノルウェーの支配下にありましたが、16世紀にノルウェーとデンマークが同君連合になった後はノルウェー=デンマーク領となり、1814年に連合が解消されたタイミングで北西のアイスランドと同様デンマーク領となりました。
1940年に第二次世界大戦が勃発すると、ドイツ軍に北方を脅かされることを恐れたイギリスは、アイスランドとフェロー諸島を占領。本国デンマークはドイツの占領下にあり、イギリスはフェロー諸島の住民に自治を与えました。
一方でアイスランドは、戦前から強くあった独立を望む声が高まり、本国デンマークと連絡がつかないことをいいことに独立を宣言してしまいました。
戦後、フェロー諸島の住民の中には、兄弟のアイスランドと同様に同じように自分たちも独立しよう、という声が高まり、1946年9月14日に独立の是非を問う住民投票が実施されました。

結果、独立賛成が5660票に対し反対が5499票
この結果を持って、9月18日に「フェロー諸島共和国」の独立を宣言しました。

しかし2日後の9月20日デンマーク政府は「3分の2の賛成がない以上、独立宣言は無効」と通告。さらに4日後にデンマーク国王クリスチャン10世がフェロー諸島を訪れて正式に独立の無効と議会の解散を宣言し、わずか6日で共和国は解体されてしまいました。

4位:ソマリランド国(1960年6月26日〜7月1日 5日間)

ソマリアは現在も分裂状態が続いており、北部ソマリアは「ソマリランド」と自ら名乗って1991年に独立宣言をして今に至ります。その他、東部はプントランドと自ら名乗り独立国家を主張しており、首都モガディシュの力は南部にしか及んでいません。
この北部ソマリアはたった5日間だけ「ソマリランド国」という名前で独立していたことがあります。

第二次世界大戦後、南部ソマリアはイタリアの信託統治領となり、北部はイギリス領となっていました。1960年のアフリカの独立ラッシュの中で、イギリスとイタリアはソマリアの独立を認めることになりました。分裂の時期が長く続いたとはいえ、ソマリ人は南北の統合を求める声が多くあったため、1960年6月26日に北部ソマリアは「ソマリランド国」としてイギリスから独立。その5日後の7月1日に南部ソマリアは「ソマリア共和国」として独立。同日、ソマリランド国はソマリア共和国に併合されました

ところがすぐに部族対立によって内戦に突入。南部ソマリアの混乱は現在も続いていますが、北部ソマリアはいち早く1990年代前半に自ら秩序を回復。「ソマリランド」と称して国土の掌握と国家運営を今でも続けています。

3位:カルパト・ウクライナ共和国(1939年3月14日〜3月15日 1日間)

1938年、ナチス・ドイツがチェコスロヴァキアのズデーテン地方の割譲を要求。これに対し、ドイツと近い関係にあったハンガリーも旧領土カルパティア・ルテニア(現ウクライナ西部ザカルパッチャ州)と北ハンガリー(現スロヴァキア) の割譲をチェコスロヴァキアに要求しました。

カルパティア・ルテニアはチェコスロヴァキアの中でもルテニア人(ウクライナ人)が多く、スロヴァキアは当然スロヴァキア人が多い土地で、周辺各国の領土ぶんどり合戦の対象でもありましたが、民族自決の潮流の中独立運動も激しく起こっていました。

結局ドイツへのズデーテン地方の割譲は認められ、チェコスロヴァキア政府の求心力が低下すると、カルパティア・ルテニアとスロヴァキアにも自治権が与えられチェコスロヴァキア内の自治共和国となりました。

しかし引き続きハンガリーは両自治共和国の割譲をドイツに要求。ドイツとハンガリーは密約を交わし、スロヴァキアの割譲は認めないまでも、カルパティア・ルテニアの併合は目をつむる妥協がなされました。
1939年3月14日、ドイツの働きかけでスロヴァキア自治共和国は独立宣言をし「スロヴァキア共和国」が成立。同じ日に、カルパティア・ルテニア自治共和国も独立宣言をして「カルパト・ウクライナ共和国」が成立しました。

しかしドイツとの密約を受けたハンガリー軍が独立宣言と同時にカルパティア・ルテニアに侵攻しわずか1日で首都フストは陥落。抵抗軍も3日で制圧されました。

2位:クリミア共和国(2014年3月17日〜3月18日 1日間)

ロシア革命後、クリミアでは1921年に赤軍の侵攻を受けて「クリミア自治ソヴィエト社会主義共和国」が成立し、1945年に正式にロシア・ソヴィエト社会主義共和国に併合されました。
その過程でクリミア・タタール人は中央アジアに追放され、ロシア人が多く移り住みました。1954年、クリミア州はウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国に移管され、ウクライナ人もまたクリミアに移り住むことになりました。

1991年にウクライナが独立すると、クリミアも引き続きウクライナに属するものとされましたが、ロシア系住民はウクライナによる統治を望まずに自治を求めたため、軍港のあるセヴァストポリ以外は、クリミア自治共和国として一定の自治を認めることになりました。

ところが2014年にウクライナで親露派のヤヌコーヴィチ政権が崩壊し、親EU派が主導権を握ると、親EU派に反発するロシア系住民と武装勢力(ロシア軍)は議会を占拠。3月11日に開かれたクリミア自治共和国議会とセヴァストポリ市議会にて、クリミア自治共和国と政府直轄地セヴァストポリ市は一方的にウクライナからの独立と「クリミア共和国」の成立を宣言しました。

3月16日に「ウクライナに残留するか」「独立をしロシアに編入されるか」の住民投票が開かれ、結果後者が多数となり、3月17日に「クリミア共和国」は独立し、翌日ロシアのプーチン大統領はクリミアのロシア編入を承認。
クリミア共和国は1日で消滅し、予定通りロシアに編入されたのでした。

1位:ロシア民主連邦共和国(1918年1月19日 13時間)

二月革命でロシアのロマノフ王朝は倒され、立憲民主党主導で「ロシア臨時政府」が成立。臨時政府は速やかな政府樹立を目指して制憲委員会を設立して憲法策定を急ぎました。
ところが十月革命の勃発で臨時政府は打倒され、レーニンは1917年10月に「人民委員会議」を設立し、第一次世界大戦からの撤兵や土地の分配、銀行国有化・口座の押収などを採択しました。

ペテログラードやモスクワを中心としてボリシェヴィキが勢いを増していき、あせった民主派やメンシェヴィキは赤軍への反攻を開始します。
中断していた制憲委員会による憲法はようやく翌年1月に発表され、1918年1月19日、民主的に選出された議員により、「ロシア政府の形態に関する決議書」を起草し採択。ロシア民主連邦共和国の成立を宣言しました。

憲法によると、ロシアを民主主義の連邦共和国であると定義し、元首は大統領であり、議員を1年任期で選出するとし、選挙権は20歳以上の男女にあるとしました。
しかし議会は共和国宣言からわずか13時間後に全ロシア中央執行委員会(後のソヴィエト連邦最高会議)の命令で解散させられ、憲法も停止されました。

まとめ

本気で独立しようとして潰されるものもあれば、合併するために独立するものもあり、国家って何なんだろう、と考え込まざるを得ません。
 ベトナム独立の父ホー・チ・ミンは「独立と自由ほど尊いものはない」と言ったそうで、それはもうまったく真実なのですが、「国の独立」はある種政治的なプロセスであって、尊ばれるものであるどころか簡単に足蹴にされる類のものであることもまた真実であると思います。

参考文献

「東ティモールを知るための50章」 山田満 明石書店
「図説 アイルランドの歴史」 リチャード・キレーン 彩流社 
「世界の歴史<22> ロシアの革命」 松田道雄 河出書房新社 

 参考サイト

California Republic - Wikipedia

Republic of Kuwait - Wikipedia

 History of the Faroe Islands - Wikipedia

" Carpatho-Ukraine, Independent For Only 24 Hours" big think

Russian Democratic Federative Republic - Wikipedia

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