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ブラジル近現代史――ブラジル帝国から現代ブラジルまで

ブラジルのGDPは世界9位(2023年度)であり、天然資源や工業部門で世界経済に占める割合は大きなものがあります。
日本人の移民の歴史も長く、3世や4世の日系人が日本で就職するケースも多く、人的な結びつきも強い国です。にも関わらず、ブラジルの歴史というのはあまりにも馴染みがありません。
今回はブラジルがポルトガルから独立した1822年から20世紀までの歴史を、全4回に渡って追っていきたいと思います。


1. 独立の英雄・皇帝ペドロ一世

 ブラジルは長い間、ポルトガル帝国の海外戦略の中心でした。
植民地ブラジルがあげる富の量は本国よりも大きかったし、ナポレオン戦争中はポルトガル王室はブラジルに避難しており、1815年から1821年の間、ポルトガルの首都はリオ・デ・ジャネイロにありました。
クリオーリョ(南米に生まれ育った白人層)は、自分たちが経済的に多大な貢献をしているのにも関わらず、本国の貴族たちが偉そうにのさばって見下した態度を取ることに我慢できませんでした

1820年、本国ポルトガルで立憲革命が勃発。リオ・デ・ジャネイロのジョアン6世は本国に帰国し、皇太子ドン・ペドロを摂政としてブラジルに残しました。
1821年に開催された議会で、ポルトガルの代議士は130名だったのに対し、ブラジルの代議士はわずか70人。少しの間でしたが帝国の首都があったブラジルはまた従属的な植民地に格下げされてしまいました。これはクリオーリョたちの強い反発を招きました。
国王ジョアン6世は皇太子ドン・ペドロに帰国を命じますが、ドン・ペドロはこれを拒否。クリオーリョの側に立ち、共にブラジルの独立を宣言しました。

ドン・ペドロはブラジル皇帝ペドロ一世として即位しました。

本国ポルトガルは、1825年に以外なほどすんなりとブラジルの独立を承認しました。
承認の条件は、ポルトガル人がブラジルに残した資産や土地所有権の確認などの金勘定周りです。多くのブラジル人からしたら、なぜ連中のカネを接収してしまわないのか不満でしたが、皇帝ペドロ一世はしっかり金銭面の保証を行ったため、ポルトガルもブラジルの独立を認めたし、ポルトガルが認めた故にヨーロッパの多くの国も追従して独立を承認したのでした。

ペドロ一世は、広大な領域に住む複雑な民族構成の帝国の政治的な安定をまずは達成するため、皇帝を中心とした中央集権色が強い「1824年憲法」を公布させました
皇帝は議会の招集、解散の権限の他、知事や陸海軍大臣、大使、治安判事などの任命権を持ち、外交交渉権も持ち、また政治三権(司法・立法・行政)を超越する第四権をも持つことができました。当然ながら皇帝は政治的行為についての責任が問われることはありませんでした。

クリオーリョからしてみたら、せっかくポルトガルから独立して自分たちの好き勝手にできると思ったのに、ここまで強固な中央集権体制にされてしまうと独立した意味がないと不満がたらたら。皇帝の取り巻きはポルトガル人ばかりだし、そもそも皇帝もポルトガル王族の一員だ。

こうしてブラジル各地で中央集権化へ反発する反乱が相次いで発生。
1824年7月に北東部のペルナンブーコ県のレシフェ市がブラジル帝国からの独立と共和制国家「赤道連邦」の設立を宣言しました。

赤道連邦はアメリカ合衆国に倣った地方分権を掲げ、ペルナンブーコ県に加え、マラニョン、バイーア、アラゴアス、パライーバ、リオ・グランデ・ド・ノルテ、セアラーといった地域が相次いで参画。ペドロ一世はイギリスからカネを借りて傭兵を雇って半年近くでこの反乱を押さえ込みました。
また、南部のシスプラティーナ州も隣国アルゼンチンの支援を受けてブラジルからの独立闘争を開始しました。

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もともとシスプラティーナ州は、ラ・プラタ連合(アルゼンチン)のブエノスアイレスと自由主義者ホセ・アルティーガス率いる連邦同盟が領土争いを続けていたところで、1816年にポルトガル王ジョアン6世が横から軍事侵攻をして掠め取り、ポルトガル領としていました。

1825年、ホセ・アルティーガスの副官だったフアン・アントニオ・ラバジェハがシスプラティーナ州で反ブラジルのゲリラ運動を開始。ラ・プラタ連合は公然とこれを支援したため、ブラジルはラ・プラタ連合に宣戦布告。ブラジル・アルゼンチン戦争が勃発しました。

この戦争はラ・プラタ連合が戦いを優位に進め、シスプラティーナ州全体をアルゼンチンが制圧する勢いだったため、警戒したイギリスが仲介に入りました。そしてシスプラティーナ州を「ウルグアイ東方共和国」として独立させることで和解が成立。両軍が撤兵したのでした。

この事実上の敗戦はペドロ一世の求心力を弱め、とうとう1831年4月5日に宮廷前に暴徒が集まり反乱となり、これに近衛兵も参加したためペドロ一世は退位宣言を行い、ポルトガルに帰国しました。

2. ペドロ二世治下の経済発展

ペドロ2世

皇帝が退位した時、息子のペドロ二世はわずか5歳で、皇帝に就けるには18歳からだったので、元老会が選出する摂政による合議で政府を運営することになりました。1834年に憲法が修正され中央集権体制が緩められ、連邦共和化が進んだこともあり、全国各地で反乱や分離運動が盛んになりました。しかし幸いにも国家分裂は防がれ、後の連邦体制下での政治的統合への自信につながっていきます。

さらにこの時期、近代化のための行政制度・教育制度が整えられ、出版の自由が規定され、財政が再編されました。加えて、有望なコーヒー農業に魅せられてヨーロッパから大量の移民がやってきました。彼らによりヨーロッパ流の労働規範や勤労意欲がもたらされることになりました。

1840年に皇帝に就いたペドロ二世は、政治の安定を目指し自由党と保守党の二大政党に「四年で交互に政権を担当する」ことにさせました。この間に輸入関税が引き上げられ、国内産業保護と工業化のための布石が敷かれると同時に、銀行制度の改善で商業が活性化されました。

この時代、ブラジルとイギリスの関係は「奴隷問題」を巡って対立関係にありました。イギリスは人道的観点から奴隷の禁止を既に宣言しており、国際的にも「奴隷船は海賊船とみなす」とし自国の裁判にかけてすらいました。ブラジル国内では特に地方の農園の資本家に反奴隷解放の考えが強く、国内世論も大多数が「奴隷維持派」でした。

1846年の時点でブラジルは年間2万人ほどの奴隷を購入しており、イギリスはブラジルの領海内ですら奴隷船の拿捕を敢行したため、ブラジルの反英感情は高まっていました。
しかし国際的な圧力には抗しきれず、ブラジルも1850年に奴隷交易禁止令を発布。新規の奴隷の取引を禁止しました。
これにより、これまで奴隷交易に流れていた投資が国内のその他の産業に回ったこともあり、経済発展は一段と高まる結果となりました。

1850年時点でブラジル国内の奴隷は200万〜400万人程度いたと推定されます。普通に安価で買えた時代は、数年で廃人になるほどこき使うのが普通でしたが、新たな奴隷が買えなくなると価格も上がり比較的優しい待遇に変わっていきました。
温情的になってきたとはいえ、特に地方の労働力として奴隷は必要不可欠という意見が多数派。農園のみならず教会や政府ですら奴隷を保有しており、地方の人口の9割は奴隷という地域すらありました。
しかし1863年にアメリカで奴隷解放令が出され、アメリカ大陸で奴隷制を維持している国はブラジルとキューバだけになっていました。国際的な動きに同調し、皇帝や政府高官、都市知識層は奴隷制廃止に向けて動き始め、1864年に皇帝はパラグアイ戦争後の奴隷解放を示唆する声明を発表しました。

3. パラグアイ戦争の勃発

ペドロ二世時代、ブラジルの最大のライバルは対外膨張主義を進めるアルゼンチンでした。
アルゼンチンの独裁者フアン・マヌエル・デ・ロサスは、ウルグアイとパラグアイを含めた地域を「大アルゼンチン」として併合しようとしており、ブラジルはこれに対抗する形で、緩衝国ウルグアイとパラグアイへの干渉を強め親ブラジル派を支援しました。

フアン・マヌエル・デ・ロサス

ブラジルは1844年にパラグアイの独立を承認し、ウルグアイの親ブラジル派・自由派コロラド党のフルクトゥオソ・リベラを支援します。

フルクトゥオソ・リベラ

一方アルゼンチンのロサスはパラグアイのアルゼンチンへの併合決議を実施したため、ブラジルは先手を打って1851年にウルグアイに介入しコロラド党のリベラを政権に就け、またアルゼンチンにも介入し反ロサスの自由主義者フスト・ホセ・デ・ウルキーサを支援。ウルキーサは1852年にロサスを敗走させ政権に就きました。

フスト・ホセ・デ・ウルキーサ

一連のブラジルによる介入は隣国パラグアイを大いに警戒させ、パラグアイ大統領フランシス・ソラーノ・ロペスは「パラグアイを大国化し、ブラジルやアルゼンチンに操られない自存自衛の国家」を目指しました。

フランシス・ソラーノ・ロペス

ロペスは鎖国体制を作り男たちに軍事訓練を施し、南米で最も精強な陸軍を構築。来るべき戦争に備えました。
1863年、ブラジル政府はウルグアイ大統領ベロに「反ブラジル派ブランコ党による牛泥棒による被害の賠償と責任者の処罰」を求める最後通牒を送りました。ブランコ党であるベロはパラグアイのロペスに支援を求めてパラグアイ軍の介入を求めますが、ブラジル軍はウルグアイの港を封鎖しブラジル軍をウルグアイに展開させたため、ベロ大統領は失脚し、親ブラジル派のコロラド党フローレスが大統領に就任。ブランコ党の処罰と賠償金の支払いに応じたのでした。

ここにおいて、パラグアイ大統領ロペスはブラジル軍の戦線の乱れを突いて一気攻勢をかけることを決意
1864年11月12日、パラグアイ軍はパラグアイ川を封鎖しブラジル軍を拿捕し、精強な陸軍をブラジルのマット・グロッソに侵入させました。
パラグアイ戦争(三国同盟戦争)の勃発です。

Work by Hoodinski

パラグアイ軍は要衝コインブラやコルンバを占領し圧力を高めると同時に、南下してアルゼンチン領コリエンテスに侵攻しました。ウルグアイの反ブラジル派を支援すると共に、アルゼンチンの反体制派ウルキーサに対し「クーデターを起こしアルゼンチン大統領に就き、ブラジルと共に戦おう」というメッセージでもありました。
しかしウルキーサはこの求めに応じなかったため、ブラジルはアルゼンチンのバルトロメ・ミトレ大統領とウルグアイのフローレス大統領と三国同盟を結び、1865年5月1日にパラグアイに宣戦布告しました。
パラグアイ・ウルグアイ・アルゼンチン連合軍と共にブラジルに攻め入り首都リオ・デ・ジャネイロを占領するというロペスの構想は瓦解し、逆に三国に攻め入られることになってしまいました。
しかしパラグアイ軍は少数精鋭で手強く、戦線が長いためブラジル軍は苦戦し、戦線は長期化します。
1866年に激戦の末にブラジル軍を主力とする連合軍がパラグアイ川を封鎖すると内陸国パラグアイは不利になり、4月に初めて連合軍はパラグアイ領に侵攻。しかしパラグアイ軍は「国土防衛戦」として女子どもも含め総力で抵抗を続けたため、連合軍の被害も甚大なものがありました。

リエチュエロの戦いでパラグアイ軍を殲滅するブラジル軍艦隊
ウルグアイ軍砲兵

1868年8月にパラグアイ防衛の最後の砦ウマイター要塞が陥落し、パラグアイ軍は総崩れとなって首都アスンシオンに退却しました。

1869年1月5日、アスンシオンは連合軍の攻勢の前に陥落。ロペス大統領は自分に従う部下を率いて首都を脱出し北部に逃亡し戦いを継続しましたが、翌年3月にセロ・コラーの地で壮絶に戦死しました。

パラグアイ人捕虜
首都アスンシオンを占領するブラジル軍

ブラジルはパラグアイと講和を結び、国境をブラジル優位に書き換えました。アルゼンチンは武器を大量にブラジルに輸出することで儲けることができました。

一方でパラグアイは国民の約半分が死亡するという大きすぎる犠牲を払い、社会インフラや人的資源も崩壊し、二度と強国として立ち直れないほどのダメージを受けたのでした。

4. 帝政打倒、共和国の誕生へ

パラグアイ戦争ではブラジル側の被害も三万から五万と大きく、また多大な戦費は通貨不安と対外債務の膨張を引き起こしました。一方でペドロ二世は、かねてより宣言していた「奴隷制廃止」を推進しました。戦争中、多くの黒人兵士が前線で活躍し仲間意識が芽生えたこともあり、多くの軍人が奴隷廃止論者となりました。政府は奴隷を解放した農園主に貴族の称号を与えたり、また文化人も奴隷解放を訴える詩を作ったり新聞に寄稿したりなど世論づくりを行い、人々のマインドは次第に奴隷解放に動いていきました

段階的に奴隷の解放が進んでいき、1848年にセアラー県とアマゾナス県ですべての奴隷が解放され、1873年から12年でリオ・デ・ジャネイロだけで1万5000人が解放されるなど、奴隷所有者による自発的な奴隷解放が進んでいきました。
1888年の段階で大部分の奴隷は解放されていましたが、これに伴い農作物の収穫量は4〜5割激減し国際収支は赤字に転落。
また奴隷を担保にした融資は回収不能になったため、債務不履行になる農園主が全国で相次ぎました。農園主を金融面で救済するために紙幣が大量に刷られたため大規模なインフレが起こり、一般民衆の生活は苦しくなっていきました。

このような不満を背景に、国内世論では帝政に対する批判が相次ぐようになります。
生活苦に対する不満を代弁したのが軍人。
軍人は命をかけて国に勝利をもたらしたのに、特権を受けることができずにインフレで生活が苦しくなるばかり。また皇帝や取り巻きは文人で、俺たち軍人に対する敬意が足りない。
1889年11月、軍部は王宮を包囲しクーデターを敢行。皇帝ペドロ二世はイギリスに亡命しました。ここにおいて、ブラジルの帝政は終わりを告げ共和制がスタートしました。
また、軍部によって共和制がもたらされたという事実は、以降のブラジルの歩みにおいて、軍部の政治的発言力を強める結果にもなっていくのでした。

5. ブラジル合衆国の成立

軍部によるクーデーターの成功でペドロ二世は亡命し、共和主義者の新政権が発足しました。
新政権は経済体制の近代化、政教分離、貴族の廃止、奴隷制補償制度の廃止、軍の倍増、男子普通選挙の実施など近代化政策を打ち出しました。
1891年2月には新憲法が制定され、三権分立と大統領の直接選挙が定められ、また地方分権的な連邦共和制が採用されました。新しい国旗が制定され、国名は「ブラジル合衆国」と改められました。

しかし、早速大統領のデオドロと副大統領のフロリアノの対立が顕在化。陸軍は中央集権化を志向する副大統領フロリアノを担ぎ、海軍は大統領のデオドロを支援し一触即発となったため、デオドロは大統領を辞任し、フロリアノが副大統領から大統領に繰り上げになりました。これに反発した一部の軍部の反乱がきっかけで、陸軍による政治介入が発生。陸軍によってフロリアノは辞任させられ、初の文民出身のプルデンテ・デ・モライスが大統領に就任しました。
1894年から1909年までの政権下で、国内・国外の様々な問題の解決がなされ、安定的な政権運用がなされました。

国境問題

ウルグアイ、フランス領ギアナ、ボリビア、オランダ領アンティルとの国境紛争が平和裏に解決され領土が確定。

経済問題

ヨーロッパからの借款を得て財政問題をクリアし、また兌換制度を確立し通貨と経済の安定化を実現

衛生問題

首都リオ・デ・ジャネイロの美化が実施され、スラムが撤去され黄熱病が駆除された。

外国人移民

日本人移民をはじめ、安い労働力としての移民を受け入れた。

ブラジルの国際地位の上昇

1914年に第一次世界大戦が始まると、ブラジルは当初は中立を維持しますが、1917年4月にドイツ軍潜水艦によりブラジル商船が撃沈される事件が起きると、中央同盟に宣戦布告。南アメリカ諸国で唯一参戦し、54000の将兵と医療部隊を西部戦線に投入し、また大西洋の哨戒任務にも当たりました。

 西部戦線に参戦したブラジル軍騎兵

戦後はブラジルは戦勝国の一員としてヴェルサイユ会議に参加し、国際連盟にも加盟しました。

第一次世界大戦の好景気はすぐに後退し、不況により政治的な不安定がもたらされます。
民衆の救済を求めた青年将校による反乱が各地で発生しますが、政府軍により鎮圧されていきます。青年将校プレステスは反乱軍を率いてアマゾンのジャングルで抵抗運動を続け、後にブラジル共産党の党首となります。
全土が不況な中で、サン・パウロはコーヒー経済が活況で経済発展を続けていました。
解放された奴隷やヨーロッパや日本からの移民といった労働力によってコーヒー農園が次々と開かれ、増産に次ぐ増産を続けヨーロッパやアメリカに輸出しまくり、ブラジルの貿易収支は黒字に好転しました。
20世紀の初頭にはサン・パウロのコーヒー生産量はブラジル全体の70%を占めており、政府は過剰生産対策に取り組まねばならぬほどでした。
行き場を失ったサン・パウロの資本は工業部門に投資され、軽工業(繊維・食品・雑貨)の国産化が進むことになりました。
サン・パウロは政治的にも発言力を高め、1926年にはサン・パウロ出身のワシントン・ルイスが大統領に就任。改革を実行しようとしますが、要職をサン・パウロ出身者で固めたため、他の地方出身者から反発を招くことになりました。

6.ブラジル・ナショナリズムの形成

 帝政の終焉から共和制、そして第一次世界大戦を経て国際的地位を高めたブラジルでは、ナショナリズムの定義の模索が続いていました。
帝政末期の19世紀末では、「沿岸部はヨーロッパの延長であり、真のブラジルは内陸にある」とし、原住民や混血のメスティーソにブラジルの民族性を求める声が高まっていきます。一方でアングロ・サクソン優性遺伝子論と有色人種の劣性の考えも根強く、移民政策はヨーロッパ人が優先されました。

20世紀初頭ごろから、ブラジルの多様性と「ポルトガル人・先住民・黒人」の三種のミックスがブラジルの誇りであるという文脈が語られるようになっていきます。
この考えを裏付けたのが第一次世界大戦の勃発で、これまで模範社会と思われていたヨーロッパが無残に荒廃していく様を見て、多くのブラジル人はヨーロッパ文明が完璧ではないと知り、また大戦の勝利で自信を深めたこともあり、「ブラジルのブラジル化」が叫ばれるようになっていきました。

1895年から15年間外務大臣に就いたリオ・ブランコは北の新興国アメリカの仲裁を得た上で、ボリビアやコロンビアなど周辺諸国から領土を購入し、ブラジルの国土を大きく拡大させました。この領土は29万4400平方キロ以上にものぼり、フランスの国土よりも大きいものでした。

外務大臣リオ・ブランコ

この時期、ブラジルは南米の大国として国際的にも注目され始め、南米諸国各地に外国公館を設置し、また南米諸国で初めてアメリカにも公館を置きました。
ハーグ会議にも代表団を送ったり、パン・アメリカ会議にも参加したりなど、国際的な存在感を高めました。

7. 独裁者ヴァルガスの登場

1929年に起こった世界恐慌は、ブラジル経済にも多大な影響をもたらしました。ブラジル経済の屋台骨だったコーヒーの価格が下落し、外貨収入が1920年代の1/3近くの水準にまで下落。経営破綻する農園が相次ぎ、町には求職者が溢れました。
折しも1930年の大統領選挙が実施され、サン・パウロ州のジュリオ・プレステスの勝利に終わったものの、野党・自由同盟は不正選挙を訴えて武力蜂起の準備を進め、軍首脳の力も借りてクーデターを敢行。リオグランデ・ド・スル出身の政治家ジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガスが大統領に就任しました。

ヴァルガスは政治改革を志す青年将校と結託。汚職の一掃、州の自治権の尊重、行政の合理化、インフラ整備を強調して国民の大多数の支持を得て、11月11日に大統領命令第一号を発令し憲法を停止し公務員や州の執政官の任命権、立法権を握り、独裁的な権力を握りました。
ヴァルガスは新たに1934年憲法を制定し、「危機の時代を乗り越えるべく、大きな政府によって国を統制し、地方の自由を制限する」ことを目指しました。
建前は連邦共和制でしたが、労働立法や資源の開発、州兵の最高指揮権など、従来地方にあった権限を大統領に移管しました。これにより、従来の支配層である地方の地主が自前の勢力で反乱を起こすことができなくなりました。
また、結社・政党の自由が認められ、一党独裁や国家主義を信奉する共産党や極右インテグラリスタ党も合法化されました。これにより、従来の保守派や軍部にあった支持基盤が、都市労働者層をも取り込みました。

ブラジル共産党は当初はヴァルガスに協力的でしたが、後にヴァルガスが保守勢力の支持を得るために民族解放同盟を弾圧したため、各地で反ヴァルガスの反乱を起こすに至ります(共産党暴動)。ヴァルガスは戒厳令を敷き、極右インテグラリスタ党をも動員して共産党の反乱を抑え、とうとう解散させてしまいました。またヴァルガスは極右インテグラリスタ党も後に弾圧し解散させています。
こうして政敵を相次いで駆逐した上で、1937年の選挙の年にまたクーデターを敢行。選挙を中止し国会と全政党を解散させ、全権を掌握しました。

8. 「エスタード・ノヴォ」の成立

ヴァルガスによるクーデターによって成立した独裁的な穏健ファシスト体制を「エスタード・ノーヴォ(新国家)」といいます。
エスタード・ノーヴォは当時の世界で主流だった「国家による経済の介入」「ナショナリズムと愛国主義」をブラジル流に推進できるようにした体制。
ポルトガルのサラザールによる「エスタード・ノーヴォ」も、背景は異なりますが向かう方向性や政策は似たようなものがあります。
ヴァルガスは世界恐慌でコーヒーの価格が下落しブラジル経済が大打撃を受けた反省から、工業化とアマゾンの開発を推進しました。コーヒーに頼らずに外貨を獲得でき、また財政を健全化し、労働者の雇用を確保する目的もありました。

工業化と開拓

1940年に五カ年計画を発表し、基幹産業の確立、鉄道網の拡張、水力発電所の建設が目標とされ、翌年にはアメリカの支援でヴォルタ・レドンダ国営製鉄所の建設がスタート。サン・パウロ州とリオ・デ・ジャネイロ州を中心に工業化が推進され、1943年にはサン・パウロ州は全土の工業力の54%を占めるまでに成長しました。
アマゾン開発は、「西部への前進」というスローガンのもと、西部のゴイアス州、北東部セルタン、北部アマゾンの開発が進められ、鉄道、道路、航空インフラが整備されました。

労働者対策

かつてコーヒー農園で働いていた者や都市のスラム居住者などの失業者は、これら国家主導で行われるこれらの工業化プロジェクトに投入され、内陸の町でも工場労働者や建設作業者が増加していきました。
また連邦政府の巨大化によって公務員が多く必要となったため、ホワイトカラーの中間層が増加。彼らはヴァルガス体制を支える重要な要因ともなりました。

愛国教育とナショナリズム

ヴァルガスは「ブラジリダーデ(ブラジル精神)」という言葉を使って愛国心を鼓舞し、ポルトガル人の寛容さ、適応力、そして黒人・インディオとの混血によって熱帯の新世界が生まれ、優秀なブラジル人種が誕生した、という文脈を造り上げました。
外国語教育は禁じられ、外国人移民も制限されました。

敬礼する大衆動員組織のメンバー。「Anauê!"(我が兄弟よ!)」
若い女性と子どもが所属する国家貢献ユース組織

ヴァルガス体制のブラジルは、当初はアメリカへの経済的な従属を防ぐ狙いから、ヒトラーのドイツやムッソリーニのイタリアへ接近していました。
しかし、1941年12月にアメリカが参戦したことにより、ブラジルは枢軸国側に宣戦布告。イタリア戦線に約26000名規模の遠征軍を派遣しました。ブラジル軍は北イタリアのモンテ・カステロの戦いなどいくつかの戦いで主攻となって活躍しました。

イタリア市民と交流するブラジル兵
モンテ・カステロの戦い
遠征軍第3連隊第11大隊

ブラジル軍はイタリア戦線で大いに活躍するも、独裁的ファシスト体制が「自由を守るため」同じ独裁体制の国であるドイツやイタリアと戦うという矛盾を説明できなくっていきます。戦いで流れた血は民主主義を守るためであったのならば、ブラジルも民主主義国家であるべきではないのか。

ヴァルガスは高まる批判を受けて1945年に大統領選挙を実施することを明言しますが、いつまでたっても履行しないため、とうとう10月3日にクーデターによって打倒されました。

 9. 左翼ナショナリズム路線

1945年10月、軍によるクーデターでヴァルガスは失脚し、12月にエウリコ・ドゥトラ将軍が民主社会党から立候補し選挙で大統領に当選しました。

エウリコ・ドゥトラ将軍

ドゥトラ政権では国家統制型経済を継続し、五カ年計画に基づき政府主導の大規模なインフラ整備によって資本家の支持を得ました。この時代、引き続きアメリカとの政治・経済の協力関係は緊密でした。

ヴァルガス

1950年の大統領選挙で選出されたのは、何と前独裁者のヴァルガス。
ヴァルガスは選挙にあたって、以前の独裁体制の復活を恐れる人々の反発を招かぬように、左翼民族主義的な政策を打ち出しました。特に増加した都市労働者層の支持を得るために、ポピュリズム的な政策を喧伝し、ラウドスピーカーやラジオ、映画など、いわゆるマスコミを使った宣伝をいち早く取り入れました。

しかしやはりヴァルガスは前時代の産物でした。
アメリカ資本に反対し工業化の進展の妨げになり、また自分を悪く書くジャーナリストの暗殺を企て、それがバレて軍部によって辞任要求が噴出しました。窮したヴァルガスは宮廷内でピストル自殺し、その壮絶な人生に幕を閉じました。

ヴァルガスはブラジル社会の構造を大変革させた功労者で、経済安定化・人口増加・教育の普及・工業化・インフラの整備など、ブラジルが後に経済発展を遂げるための基礎体力をもたらしました。
ヴァルガスの権威主義体制は旧来のブラジル社会を背景にして成立したものでした。
従来ブラジル経済を支えていた農園の人間関係は、「主人」と「下僕」の関係で大きな家族に近い存在。農園主は「下僕」たちを守ってやる義務があり、労働者たちは「主人」に服従し奉仕する。ヴァルガス政権はコーヒー経済の崩壊で「主人」を失った「下僕」たちの「新たな主人」たるべく振る舞って社会保障や労働環境を提供し、代わりに政権への忠誠を求め、相互補助的な関係を維持したのでした。

10. 民主主義の復活と崩壊

ヴァルガス自殺後の1955年の大統領選挙で当選したのは、ミナス・ジェライス州知事のジュセリーノ・クビシェッキ。

ジュセリーノ・クビシェッキ

クビシェッキはヴァルガスとは異なり積極的な外資の導入で耐久消費財工業を国内に次々と誘致しました。また、西部後進地域の開発を進めダムの建設や北東部開発管理丁を創設したりしました。
そんなクビシェッキ政権の目玉政策は、西部開発の象徴的政策である首都ブラジリア移転です。内陸部のジャングルが切り開かれ、野心的で先進的な町が建設されました。

Photo by Mariordo (Mario Roberto Duran Ortiz)
▽連邦最高裁判所
Photo by Leandro Ciuffo

クビシェッキ政権下で経済発展は年7%を記録したものの、大規模な汚職が蔓延しインフレが社会問題となりました。

1960年の選挙で当選したのは都市中間層の支持を集めた国民民主同盟(UDN)のジャニオ・クワドロス。彼はクビシェッキ政権下で蔓延した汚職の一掃を掲げてクリーンなイメージで当選しました。
しかし、議会は地方の農村保守層によって選出された民主社会党(PSD)とブラジル労働党(PTB)の議員が多く、クワドロスは議会の中で身動きがとれない状態になってしまいました。1961年8月に突如クワドロスは辞任し、後任は民主社会党(PSD)とブラジル労働党(PTB)の副大統ジョアン・グラールが大統領候補となりました。

ジョアン・グラール

グラールは議会と掛け合い、政策をスムーズに実行するための大統領権限の強化を打ち出し、国民投票で信任され大統領に就任しました。
この時既にクビシェッキ時代の輸入代替工業は限界に来ており、経済成長率は落ち込み悪性インフレ、失業率の増大によって社会不安が高まり始めていました。

グラールは1964年3月に労働総同盟の集会で「急進的民族主義路線」への転換を表明。民間製油所の国有化と農地改革の実行などを含む、急進的左派政策に取り組み始めました。
ここにおいて軍部はアメリカの支持を取り付けた上で、3月31日にクーデターを敢行。主要な州知事も賛同し、アメリカ海軍もリオ・デ・ジャネイロ近郊で軍事演習を行うことで暗にクーデターを支持。グラールは大量の地下資金を抱えてウルグアイに亡命しました。

実権を掌握した軍は、暫定政権であるカステロ・ブランコ政権を成立させ、左翼的な前政権の体制解体を試み、軍政令第一号を公布し前政権で政治に関与していた公務員や軍人、民間人から政治権を奪い、政権要人を逮捕または亡命に追い込み、左翼民族主義の拠点であったブラジル高等研究所や全国学生連盟などは解散させられました。

次に軍政令第二号を公布し大統領の間接選挙制と、既存政党の解散および政党の再編を敢行。与党の国家革新同盟党(ARENA)とブラジル民主運動(MDB)の二大政党に再編されました。
さらに続く軍政令第三号で州知事と県知事の間接選挙制が定められ、連邦政府の州政府への介入権限も追加されました。大衆扇動的な政治家の出現と地方の分離主義の両方を防ぐことが意図されていました。
またカステロ政権下では財政再建のための緊縮財政がとられ、赤字の国営企業の民営化、外資の誘致などが進められました。

11. 軍事政権下での高度経済成長

1967年3月、形式的な選挙を経てコスタ・エ・シルヴァ将軍が大統領に就任し、新憲法(1967年憲法)が正式に発効されました。

コスタ・エ・シルヴァ将軍

 シルヴァ政権下では引き続き財政再建のための緊縮財政が採られる一方で、通貨価値修正制度や税制恩典制度などにより、資本投下が急増し再び経済成長が始まりました。しかし中間層は緊縮財政下での経済成長に実感が湧かず、また軍政への不満も相まって都市部で共産主義過激派「都市ゲリラ」が増加していきました。折しもキューバでラテン・アメリカ連帯機構が開かれ、キューバのカストロはラテン・アメリカ全体の共産化を目指し、各地に革命家やゲリラを送り込んでいました。

ブラジルではキューバ革命に共鳴したカルロス・マリゲラが共産革命による政府打倒を呼びかけ、学生や知識人が動員され都市部でのゲリラ活動が盛んになり兵舎や企業、銀行の襲撃、外国外交官の誘拐が相次ぐようになりました。

カルロス・マリゲラ

シルヴァ大統領は1969年に脳溢血で死亡し、その後任に就いたのはエミリオ・ガラスアス・メヂシ将軍。
 メヂシ政権は拷問・誘拐・暗殺などの非合法を含む強権的な手段を用いて都市ゲリラを取り締まりました。また言論弾圧・政治活動の制限をかけ、ブラジルは極めて緊張した警察社会となっていきました。
しかし治安はみるみる回復していったため外資が積極的に進出するようになり、また政府の強権による低賃金労働が実現したため、年率10%の極めて高い経済成長が実現しました。
次に大統領になったのはドイツ系移民にルーツを持つエルネスト・ガイゼル将軍。

エルネスト・ガイゼル将軍

ガイゼルは民衆に高まる不満を受けて、徐々に自由化路線を進め言論の自由も緩和の方向に進めていきました。

1973年、オイル・ショックが発生。成長率は年々低下し、インフレが同時に進行していきました。経済の低迷を受けて1976年の選挙では野党ブラジル民主運動(MDB)が大勝。これを受け、ガイゼル政権は一部外資の抑制と国家による経済の介入に乗り出し、アマゾン横断道路やベネズエラに通じる横断道路の建設など巨大インフラ工事を進めました。

アメリカは人権抑圧を理由に軍事費支援の削減を宣言すると、ガイゼル政権はアメリカと距離を置き世界各国と等距離外交をスタートさせました。アジア・アフリカ諸国や南米諸国との関係改善に努め、また西ドイツと原子力開発協定を結び、秘密裏に核兵器の製造にも着手しました。

次に大統領になったジョアン・バティスタ・フィゲイレド将軍もガイゼル路線を継続して言論の自由・結社の自由の規制緩和を進め、6年後の民政移管を約束しました。

ジョアン・バティスタ・フィゲイレド将軍

過去の大統領が進めてきた外資の導入や緊縮財政が功を奏し、この時にはブラジルはラテン・アメリカで最大の工業国になり、耐久消費財はほぼ100%自国産を生産できるほどにまでなりました。旺盛な工業力を背景に、ウルグアイ・パラグアイ・ボリビアといった隣国を経済圏に取り込んでいきました

一方で高度成長にあたって様々な社会のひずみが露呈しており、格差の拡大、地域格差、対外債務の累積、インフレの加速など、一般民衆にとっては経済成長を実感できるどころか軍政下で生きづらくなっていくように感じていました。都市部ではストリートチルドレンが増加し、スラムも拡大していました。

1980年には後の大統領ルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァが組織するサン・パウロの冶金労働組合が6万人のストを起こし、また公務員や国営企業職員も賃上げデモを実施。ルーラは経済発展の恩恵を受けられない大衆・労働者の不満の受け皿となり、左派政党・労働党の党首となりました

ルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァ
Photo by Roosewelt Pinheiro

12. インフレとの戦い

次期大統領候補タンクレド・ネヴィスは民主社会党(PSD)を離党し自由戦線(PFL)を結成しブラジル民主運動党(PMDB)と連携し、さらに民主同盟(AD)を結成して立候補して勝利するも、なんと就任式の前日に倒れ、そのまま死亡してしまう。

憲法の規定により、副大統領のジョゼ・サルネイが大統領に就任しました。未だに軍部が特権を持つ不完全な形ではありましたが、サルネイ政権は21年ぶりの文民政権として期待されました。

ジョゼ・サルネイ

サルネイ政権で焦点になったのは、所得格差是正、貧困対策、インフレ抑制、財政赤字削減の取り組み。格差是正策として貧困層に農地を分配する農地改革を実施しようとしますが、大土地所有者の圧力に屈し玉虫色に終わったため、土地の不法占拠や続出することになりました。

サルネイ政権下では環境問題についても取り組みがなされ、アマゾンの熱帯雨林の保護や資源の責任ある開発に関して近隣8カ国で協業する「アマゾン条約」を締結しました。
サルネイ政権の末期はインフレが1795%に達し、政治汚職が明るみに出たことで著しく人気を落とし、退陣することになりました。

1989年10月、民政復帰後初の直接選挙で勝利したのは、中道右派の新党・国家再建党のフェルナンド・コロール・デ・メロ。

フェルナンド・コロール・デ・メロ
Photo by Ubirajara Dettimar/Abr

コロール政権はインフレ抑制を最優先課題とし、物価凍結、公務員削減、国営企業民営化、輸入自由化などをかかげますが、経済成長は低迷しマイナスを記録し、倒産が相次ぐ中でまたインフレが加速
大統領が関わる汚職事件が発覚し全国的な退陣要求運動が拡大。弾劾裁判にかけられコロールは停職され、副大統領イタマール・フランコが大統領代行となりました。

フランコ政権では行き過ぎた自由主義政策を抑制し民営化などを見直すことを明言します。輸出入ともに過去最高の数字を記録し、特に南米諸国との貿易は過去最大となりますが、インフレはとめどなく、1992年のインフレ率は1149%にも達しました。
凶悪なまでのインフレを抑えようと、経済大臣カルドーゾは「レアル計画」を発表し、通貨クルゼイロをレアルに置換しドルと対価とするデノミを敢行。これによりインフレは抑制され、直後に迫る大統領選で野党候補のルーラが優位に立っていた状況をひっくり返し、大差でカルドーゾは勝利を収めました。

カルドーゾ
Photo by Agência Brasil

インフレ抑制に成功したカルドーゾは、電気・ガス・石油といった国営企業の民営化を実施。また通信事業の民間企業の参入を認め、また道路、通信、鉄道、教育、衛生の分野で大規模な投資も実施するなど、様々な形ので景気刺激策と企業の運営の効率化、資本の増強、サービス提供価格の低下を目指しました。

これによって再びブラジル経済は上昇するも、1997年に起こったアジア通貨危機の余波を受けて経済は再び低迷。 
さらには、農地改革を求める「土地なし農民運動」が組織され、貧困農民が土地に侵入し占拠する事件が多発。警官と農民の間で多数の死傷者を出す騒ぎになり、カルドーゾ大統領は農地改革の実施を明言し段階的な農地の配分を実施。
カルドーゾの任期の間に絶対貧困層の数は1300万人減ったものの、未だに人口の1/4が貧困層であり、彼らの生活向上が課題となりました。

2002年の大統領選で当選したのは、かつて冶金労働組合を組織し権力と戦った労働党のルーラ。

Photo by Ricardo Stuckert/Presidência da República

ルーラは貧困層の出身で、極端な貧困層へのバラマキや企業の国有化、労働者の保護をするのではないかと経済界や保守層は警戒しますが、予想を覆し穏健な左派政策を採用。
カルドーゾ政権の財政健全化路線を踏襲し、公務員年金改革による財政支出の削減などを行い財政黒字を達成。国内外で賞賛されました。
かねてより問題となっていた貧困対策では、「飢餓ゼロ計画」を立ち上げて貧困世帯向けに食糧援助・教育資金補助・生活助成金を公布したり、廉価で食事を提供する「大衆レストラン」を設置したり、社会福祉に大きく力を入れました。

まとめ

ブラジル史は、経済発展と不振、政治の安定と混乱が断続的に襲ってきて、その中で都度軍が介入し国の安定化を図りながら、徐々に前進していきました。
 高い経済成長は所得の格差と悪性のインフレを招き、またお家芸ともいえる汚職事件によって大統領が追放されるケースも多く、政治の混乱と経済政策の一貫性への不安がつきまとっています。大国ならではの身動きのとりずらさもありつつ、遅々とした歩みかもしれませんが、今後経済成長と貧困層の低下をどう達成していくかがブラジルの躍進の要と言えると思います。

参考文献

「ラテン・アメリカ史〈2〉南アメリカ (新版 世界各国史)」 増田義郎 山川出版社

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