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ポルトガル・ファシスト政権の「生き残り戦略」

1929年10月、ウォールストリートで起こった株価の大暴落は、後に世界的な大恐慌を巻き起こしました。
アメリカやイギリスなど各国が自国の保護を優先して通貨や自国産業の保護を優先しブロック経済に走った結果、植民地を多く持たないドイツ・イタリア・日本といった国は全体主義を推し進め暴力的手段を用いて経済危機から脱出を図ろうとし、結果的に第2次世界大戦が勃発することになったのでした。
さて、ヨーロッパの中でもとりわけ弱小国のポルトガルは、イギリスやフランスのような植民地経済圏もない上、軍事力もないのでドイツや日本のような暴力的手段も取れない。

ポルトガルの独裁者サラザールは、ファシズムを取り入れつつも決して戦わないという、「第3の道」を取って激動の時代の生き残りを図ったのでした。


1. 19世紀のポルトガル社会

14世紀からの大航海時代で世界中に広大な植民地を設けたポルトガルは、16世紀始めから植民地獲得戦争で負け続け各地の商圏や植民地を奪われ、次第に衰えていきました。

海外貿易で稼いだカネは貴族の浪費に消えていき国内投資がなされず、国内産業はいつまでたっても農業が主流だったし、カトリックの勢力が伝統的に強く教会や修道会が特権を持ち巨大な財産を保持しており、政府による計画的な投資と分配が一向に着手できない状態。

そんな中で植民地を次々と失っていったため、主力の農産物をイギリス向けに輸出することで何とか食いつないでおり、経済的な対英従属が強まっていました。

ポルトガルの19世紀は内乱・反乱の時代で、王党派と自由主義者が互いに争い続け、自由主義者のブルジョワが勝利を収め土地改革を始めとした上からの改革を導入していきます。
新たな支配層は都市部の商人・銀行家と地主を筆頭とした農村ブルジョワで、主に公共事業の投機で大きな利益を得、軍人や医者、弁護士などの職業に就いて支配的階級を築き、政権を担えるほどの実力を蓄えるようになっていきました。
一方で、旧体制の実力者であった教会・修道会は、修道会の廃止と財産没収、または異端審問所と十分の一税の廃止などもあり衰退していきました。
20世紀に入ると、さらなる改革を望む力が強まり1910年10月、共和主義者による反乱が起こるに至ります。

2. 共和制の成立と社会

 共和制を求める活動家と一部の軍の反乱は、国王の亡命とブラガンサ王朝の崩壊に続き、ポルトガル第一共和政(ポルトガル共和国)を成立させました。
実権を握った共和主義者は、ヨーロッパの中でも特にラディカルな改革をポルトガルに導入しました。例えば、イエズス会の追放、修道会の解散、政教分離、離婚の承認など、徹底的に国内の宗教勢力を叩き潰すものでした。その他に、貴族制の廃止、新しい通貨や国旗・国歌の制定などが行われました。
これらの急進的な改革は諸外国に「ポルトガルは文明の冒涜者」「テロの王国」などと罵られ、国際的な非難が高まりました。
1914年に第一次世界大戦が勃発すると、ポルトガルはいち早く共和国を承認したイギリスとの友好関係を維持すべく、イギリスの反対を押し切って協商国側で参戦。アフリカ植民地とヨーロッパの戦場に将兵5万5000を送り込みました。
ポルトガル軍は総じて弱く、西部戦線ではドイツ軍にコテンパンに叩きのめされ、崩壊寸前となりました。

威勢よく軍を送り込んだはいいものの、戦費負担が国内に重くのしかかり、運悪く凶作も重なり暴動が拡大。
その隙をついて、親独派の陸軍大佐シドニオ・パイスがクーデターで実権を握り大統領に就任。カリスマ性のあるパイスは大衆の熱狂的な支持を受けて、さらなる改革を進めることを明言しました。パイスはヒトラーやムッソリーニの先駆者とも言える大衆扇動型の政治家でした。

ところが、パイスは指導力がなく、早くも政治家たちは愛想を尽かし、9月の総選挙ではクーデターに協力的だった民主党・改進党・統一党が野党に転じ出馬を拒否したため、議会は王党派・カトリック勢力が占めてしまいました。
改革を進めようにも目下の問題に対して対処する人材にも欠けており、政権運営のためにパイスは王党派・カトリック勢力ら右翼勢力に妥協するようになっていきました。やがて右派にも見限られたパイスは、共和主義者によって暗殺されてしまいました。
その後、短命の内閣が続くものの、国家財政は安定し始め、債務も1910年のほぼ半分にまで減り、国会では農地改革や累進界税、産業国有化、社会福祉などが議論されていました。

共和制下でも支配階級は商人・銀行家・地主といったブルジョワ階級でしたが、第一共和政下で中産階級がめざましく成長し、1930年の段階で30%程度を占めるにまでなっていました。特に顕著なのは公務員と軍人で、1911年から20年間で公務員は1.5倍、軍人は1.8倍に増えていました。
共和制下の中央集権体制で都市化と財政健全化が進行し、結果的に増えた中産階級の存在は、ポルトガルが第一次世界大戦に参入させる「自信」にもつながっていたのです。
ところがことが始まってみると、予想以上に財政も軍事も脆弱であり、すぐに国内は混乱。農村でも都会でもストライキが頻発したため、政府はすぐに労働者寄りの政策を取り始めました。
これにより、労働条件や賃金、生活水準は向上。農民~都市中産階級の不満は吸収されていきましたが、これに反発したのが資産家・地主・教会勢力などのブルジョワ階級。激しいインフラが続き、彼らブルジョワ階級は絞られるだけ税を絞られ、不満が高まっていました。
ポルトガル第一共和政は、増加した中産階級の支持を得るためにブルジョワ階級が持つ資産を奪って下に富を配分することで成り立っていたのでした。
次いで現れるファシストのサラザール政権は、不満が募っていたブルジョワ勢力の巻き返しであり、彼らが軍部と結託し強力に都市中間階級と農村を支配しようとした体制でもありました。

3. サラザール支配体制の確立

1926年5月28日、第一次世界大戦の英雄ゴメス将軍が北部で反乱を起こして首都リスボンに進軍し、他の軍の大多数も同調。翌々日には内閣は総辞職し、軍が全権を掌握しました。
共和主義者の反乱もむなしく軍は独裁体制を構築し、ここにポルトガル第一共和政は終焉したのでした。

治安を安定させた軍はさっそく財政の健全化を成すべくコインブラ大学の教授サラザールを財務大臣に任命しました。

サラザールは「財政の均衡なくして経済の繁栄なく、経済の繁栄なくして社会の安寧なく、社会の安寧なくして政治の安定はない」と述べ、厳しい引き締め政策、増税、海軍・教育関係の歳費削減を大胆に進め、なんと大臣についた翌年から黒字を計上することに成功したのでした。
1929年の世界恐慌も、運よく対米経済依存が少なかったこともあり影響は最小限で、公共事業を拡大して失業者を吸収。
一連の経済政策は、財務大臣サラザールの人気を一気に押し上げた。一方で閣内ではサラザールは右翼ファシストと結託し、「自由主義を犠牲にした経済最優先」政策を進めようとしていました。

1932年5月、サラザールは首相に就任。
軍部を掌握した後労働組織を解散させ、政府が監督する労働組合への加入を義務付け、ストライキや国際労働運動との連携を禁止するなど、労働者をコントロール下に置くことに成功。その後サラザールは極右ファシスト勢力のMNS(ナショナル・サンディカリスト運動)の弾圧を開始しました。

もともとサラザールとMNSは結託しており、ポルトガルのファシスト勢力はサラザールを指導者として支援していましたが、1930年にサラザールが民主主義でもファシズムでもない「第三の道」を掲げた時からファシズム国家建設を掲げた極右勢力はサラザールを非難し、独自団体MNSを設立させていました。
MNSは「国民を動員したより革命的な政体の設立」を目指しましたが、サラザールは現状維持的で、「中道的な政策をファシズム的な締め付けで達成する」という現実路線を採っていたのが大きな違いでした。

1933年にドイツでヒトラーが政権を奪取すると、勢いづいたMNSは活動を活発化させますが、サラザールは強権的にMNSの本部を閉鎖させ、党首ロラン・プレットを国外追放にし、極右ファシズム勢力を完全に潰してしまいました。
1936年にはサラザールは首相・財務大臣に加え、陸軍・海軍・外務大臣も兼務し権力を集中させ、スペイン内乱に介入しフランコ軍に義勇兵「ヴィリアト軍」を派遣。スペイン共和国軍を支援する共和主義者と対立しました。

サラザールは共産主義の侵入を恐れ、ヒトラーユーゲントをパクった青年団体「ポルトガル青年団」を設立させて青少年を奉仕活動に狩りだし、愛国心を鼓舞しました。

1940年には「ポルトガル世界博覧会」を開催。
当初は世界各国が参加する万国博覧会として企画されましたが、第二次世界大戦の勃発により、ポルトガル植民地帝国のみの博覧会となりました。
ここでサラザールは1143年のポルトガル建国800周年と、1640年のスペインからの再独立300周年を祝し、ポルトガルのナショナリズムを大いに高揚させたのでした。



4. サラザール独裁体制「エスタド・ノヴォ」

サラザールを独裁者とする権威主義・ファシズム体制はポルトガル語で「エスタド・ノヴォ」訳すと「新国家」と言われます。
エスタド・ノヴォを支えていたのは、第一共和制の不満分子だったブルジョワ階級。
第一共和政では、成長してきた中産階級の支持を繋ぎ止めるために、ブルジョワ階級から富を絞り労働階級に配分して成り立っていましたが、体制的にも財政的にも限界があった。
そこでサラザールは金融・商業資本と地主を保護し、資本の蓄積を促進して工業化を進め経済成長を最優先させた。そして労働組織を解体し共産主義の芽を潰した上で、愛国的な風潮を強めて中産階級を繋ぎ止め、不満分子の発生を抑えて体制の安定化を図ったのでした。

サラザール体制下では一党独裁、言論の自由の封殺、秘密警察による政治犯の拷問、白色テロなどファシズム的要素が多くありますが、ドイツで見られたような反資本主義、大衆動員、革新性などはなく、またドイツやイタリアのような領土拡張は見られず、どちらかというと「守り」に主軸を置いた姿勢でありました。

植民地もさほどなく、軍事力も弱小で、財政も不安定。産業の主体は農業で工業化は充分でない。
そんな中でいまあるリソースで現実的にこの危機を「うまくやり過ごそう」としたのが、サラザール体制だったと言えると思います。

5. うまく立ち回るポルトガル

第二次世界大戦が勃発すると、ポルトガルは直ちに中立を宣言。
枢軸国のドイツ・イタリアともに友好であり、イギリスとは通商関係にあるという具合だったため、首都リスボンは連合国と枢軸国双方のスパイが押し寄せ、情報戦を繰り広げる魔境都市となりました。
戦況が連合国に優位となると、サラザールは1943年8月に秘密裏にイギリスに接触し、ポルトガル領アゾレス諸島の軍事基地の使用を認め、アメリカに対しても大戦後の東ティモールの回復を条件に基地の利用を認め、実に上手く立ち回ったのでした。

戦時中ポルトガルは、枢軸国・連合国双方にタングステンを輸出して儲け、戦禍にも見舞われずに37年から47年の間の経済成長率は3%を記録しました。
大戦中は経済的成長を成し遂げたにも関わらず、実質賃金の低下・労働条件の悪化・物資の不足が起こったため、全国各地で地下組織・共産党が労働者を糾合し労働運動を引き起こしました。

1943年にイタリア・ファシスト政権が崩壊すると、労働運動・ストライキはピークに達しますが、サラザールはそれらの運動を徹底的に弾圧することで収束させたのでした。

6. 残った独裁体制

第二次世界大戦が終わり、世界的に民主主義が大きな潮流となるにつれ、「戦時臨時体制」とも言えたサラザール引退の声が強まっていきました。

しかしサラザールは政権の維持を表明。
共産主義という新たな敵を迎え撃つ西側諸国は、ポルトガルを反共陣営を引き入れるためにサラザール体制を支持。隣国スペインのフランコ体制とともに、戦後に至っても古臭いファシズム政権が存続することになってしまったのでした。

マーシャルプランに基づく経済復興策で他のヨーロッパ諸国がみるみる経済成長していく中で、硬直したファシスト体制での農業振興を中心にした経済政策は遅々として進まない。
国家の過剰干渉による競争の排除や低賃金、労働運動の禁止に加え、体制の擁護者であるブルジョワ階級は現状維持を望み投資意欲に欠け、経営の近代化・生産性の向上を図ろうとしませんでした。
大戦後、植民地諸国の独立運動が加速化し、アンゴラ、ポルトガル領インド、モザンビーク、ギニア・ビサウ、東ティモールなどのポルトガル植民地でも独立運動が拡大。

ポルトガル帝国の維持を目論むサラザールはこれら植民地諸国の抵抗を武力で抑え込もうとしますが、植民地解放を掲げる第三世界の大きな潮流の前に上手くいかずに戦費ばかりかさんでいく。
1974年、植民地抵抗軍との先頭に立つ軍が政権に反旗を翻し革命を起こし、サラザールに始まったファシズム体制はようやく幕を閉じたのでした。

まとめ

海上帝国の伝統があるポルトガルは元々、貴族・カトリック勢力の力が強く、また農業依存の割合が強かったため、中間となる中産階級がなかなか成長しませんでした。

王政を排し共和制になってから中産階級の台頭が見られますが、貧弱な工業力と不均衡な財政、ブルジョワに偏った富が足かせとなり、下手をすれば共産党が中産階級を糾合し共産化してしまう可能性が大いにありました。

そんな中でサラザールは、「無い無いずくし」のポルトガルを安定させ経済成長させるため、ファシズム的・家父長的な中央集権体制を敷きつつ、雀の涙の資本を工業化に回し、対外的にもうまく立ち回り、危機の時代にポルトガルを生き残らせることに成功したのでした。

確かに「緊急時」としては現実的な方法だったとは思いますが、戦後30年近く「緊急体制」を続けてしまうと、世界的な潮流にも乗り遅れ、ただでさえ貧弱な工業力がますます他国と比べて太刀打ちでないものになってしまい、外国への経済依存が強まってしまう。

 サラザールはポルトガルを「生き残らせる」ことには成功したのかもしれませんが、旧体制のまま生き残らせたのであって、結果的に新たな時代への対応を遅らせたかもしれません。

参考文献

「ポルトガル史」 金七紀男 彩流社 

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