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映画評論家ロジャー・エーバートが語る「火垂るの墓」と日本アニメ

高畑勲監督 スタジオジブリ制作「火垂るの墓」。海外でも「史上最も悲しいアニメ映画」の名をほしいままにします。

この「火垂るの墓」を非常に評価するアメリカ人映画評論家がいます。彼の名はロジャー・エーバート。アメリカでも評価の高い映画評論家ですが、アニメ芸術にも造詣が深く、日本アニメの特徴やその芸術性を適切に、端的に説明している動画があったので、全訳してみます。下手な訳なので間違っているところも多いと思いますがご了承ください。

元ソースの動画はこちらです。

私はこれまでたくさんの映画作品を見てきました、興奮するもの、ドラマチックなもの、芸術的なもの、様々にあるが、感情的に揺さぶられるものはそうそうないものです。私は初めて「火垂るの墓」を見た時、驚きました。本当に感動して…涙が溢れました。この映画の何がそんなに驚きなのかよく分からないかもしれませんが、戦争、惨禍、犠牲者に対する「感情の幅」があります、それが驚きなのです。

私は15年前にハワイ国際映画祭でベトナムから来た映画関係者と会ったことがあります。彼らは我々が作ってきた戦争映画の視点の「向こう側」の視点を描いてきたのです。私が気づいたことは、彼らはアメリカを敵として扱っていることです。そのことを彼らに聞いたら、こう言いました「我々は史上多くの敵がいた。中国、フランス、そして次の敵がアメリカだった。ベトナム人がずっとベトナム人であり、単に我々を攻撃してきた連中が敵だった」とね。私が思うに、彼らのアイデンティティは誰が敵であるかは関係ないんです。おそらく「火垂るの墓」についても同じことが言えるでしょう。空襲のシーンも彼らの国家や社会性そのものを破壊しようと表現されているかと言えばそれは正確ではありません。このシーンを見た時に私が考えていたのは、爆弾を喰らう幼い兄妹のことか、邪悪な種族・日本への然るべき報いのことか、ということです。

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アニメというのは非現実的なものです。バッグス・バニーのようなウサギはいないし、ミッキー・マウスのようなネズミはいないのと同様、「火垂るの墓」に出てくるキャラクターのような人間はこの世にはいません。日本のアニメは極端にデフォルメ化された顔、そして大きな目に特徴があります。それは彼らのスタイルなのです、そうですね、視聴者はそれをそれとして、慣れないといけないんです。目が大きすぎるから嫌いだ、という意見はありますけどね。日本のアニメの目が大きいのは、初期のディズニー映画の影響が極めて大きいのです。そして極端にデフォルメするのは個々のキャラの個性を立たせるためで、それも初期のディズニー映画でアメリカのアニメーターたちが発見したことなんですね。現実の人間を完全に模さなくていいということです。「火垂るの墓」も他のアニメもそうですが、私が思うに、感情表現はまったく現実の人間を模して表現しなくていいのです、この映画を見たら分かりますが、非現実の人間でもその感情、苦難や個性や意志を、ありのままに理解できます。

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私が日本アニメで特に注目したいのが、水彩的な画の表現です。「となりのトトロ」が典型です。この作品は完璧な水彩の表現の背景で満たされています。柔らかさ、優しさ、温かさ。それらはアメリカのアニメのコンピューターで描いた人工的な画とは対照的です。私は個人的にこういう手書きのスタイルが好みでして…というのも初期のコミック、例えば日曜の新聞にあったようなコミックのことですけども、そういう筆の線がくっきりした手書きの、それも作者の生活が描かれているものですね。日本のそれが、まさにこういったものなのでしょうね。

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日本の俳句には「枕詞(Pillow Word)」というものがあります。それは短いフレーズで、音楽的な音韻があり、その後に続く言葉につながります。私が最も敬愛する映画監督のひとり小津安二郎は、私が「Pillow Shot」と呼ぶ技法を多用します。彼は様々に物語を展開させます、家の中で父と娘、たまたま来た来客、家の隣人たち、男の娘、婚約者など、様々に交錯します。そしてあるシーンが終わると、小津はすべてをカットしある別のシーンを写すのです。それは全くもって美しいものではなく、例えば建物の角とか、電車の影とか、窓と屋根と電線とか。あるいは、男が木に触っているカットがあって、それから男が部屋に戻ってきて次に移っていくとか。つまり、シーンとシーンの間にある句読点というわけです。シーンとシーンの間のある沈黙は、その間を急いで繋がずに独特の間を作るのです。何かが起こり、間があって、次に何かが起こって、間があって。その間は実は非常に重要であり、特に「火垂るの墓」では素晴らしい効果をもたらしていることにあなたは気づくと思います。このカットはもうほんとうになんでもない一瞬のシーンなんです。

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私が思うに、日本アニメの重要な要素はこの物語に出てくる「まったく重要でない描写」なのです。誰かのちょっとした仕草とか、誰かが着替えたとか、行ったり来たりしてるとか。そう、日本アニメの表現を豊かにしている要素はその余計なモノを入れているということですね、「火垂るの墓」にもみられます。蛍を放って洞窟を明るくするという、静かでミステリアスなシーンです。

人々は時々、日本アニメはアメリカのアニメと比べ、先進的でなく、古臭くて、洗練されてないと言います。アメリカのアニメは24フレームの中でキャラクターを限りなく動かして人間表現をしようとします。日本のアニメはフレームでの動きは少なく、キャラクターは非現実的だし、背景描写も時には現実的でなく、はっきりと描かれていないこともあります。時には時間の制約か、パーツしか描かれていないことすらありますし。しかし私に言わせれば、ストーリーはキャラクターの目があれば十分ワークしていますし、他の要素を重要でなくするほどのディテイルを説明します。

映像を隅々まで見なくとも、究極の技術的優秀さは明確で、人の手による妙技に尽きます。そのアートは何フレームにどれだけを詰め込んだかではなくて、どれだけ視聴者に思いをもたらすかというアートなのです。

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