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ワタシは人との距離感がうまくとれない

昔から女の子のグループが苦手だ。
トイレを一緒に行ったり、交換日記をしたり、お誕生日会だとかひと通りのことを経験はしたけれど、苦手だ。

大人になってからも変わらない。
ひとりでご飯を食べれない女の子が苦手。

ひとりでご飯を食べに行けないって、自分の行きたいことややりたいことを一人でできない、決められないってことでしょう?
私には信じられないし、ありえなかった。


大学卒業後、就職。
配属先で一緒になった同期唯一の女性が、その「ご飯をひとりで食べられない」人だった。

どこへ行くにも、何をやるにも必ずついてくる。
ほぼ一緒。

無愛想で一匹狼な私とは異なり、彼女は愛想がよくて行く場所行く場所で愛されていた。
いつも私は引き立て役のような役回りを感じていた。

本当だったらひとりで好きなように動いてやりたいようにやるのに、彼女がついてくるとそういうわけにもいかない。
さらに、引き立て役もやらされたようなもので気分は最悪だった。


そんなある日。
ひとりで行動する日があって人に会うと、会う人会う人が「今日はひとりなんだね」「今日は〇〇ちゃんと一緒じゃないんだね」と声をかけてくれた。

その度に私の中で、少し寂しさを感じる。
今日は一緒に分かち合う人がいないのか、と。

それと同時に、〇〇ちゃんと一緒じゃない私には価値がないのかなと思う。

いつもついてきて面倒くさく感じてたのに。
柄にもなく、ひとりだとなんとなく寂しい。



そんなことを、何気なく地元の友人に話していた。

「普段は面倒くさいと思っていながら、いざひとりになったら寂しいなんて。それはわがままだよー。」


言われてハッとした。
思いもしなかった発想だったから。


いつも一緒だと面倒くさい。
でも、ひとりだと寂しい。

ずっとずっと一緒にいる時間が続くわけではない。
けれど、何でも一緒の時間がすごくしんどかった。
ほっといてほしかった。

でも、その「ほっといて」のタイミングは他者から見れば気まぐれでわからない。
それは、わがままとも捉えられることもあるのか、と初めて知った。


今でも私自身、うまく人と距離が取れない。
相手の求める距離感を取れているのかわからない。
近すぎることもあるかもしれないし、逃げていることもあるかもしれない。

ただ、そういう価値観の人がいたということだけ。
そのことだけが今も心に残っている。

私のことを好きな人も嫌いな人もいるだろう。
それもそういう人もいるという私の記録帳に残している。

それが何の役に立つのか、必要なのか。
それはまた別の話ということで。

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