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生きたくても生きられなかった誰かの為に

このnoteは「玉城ちはる」と「なお」の共著です。
今回は「なお」の執筆です。


生きたくても生きられなかった誰かの為に


生きたくても生きられない人がいるんだよ。

死にたいと言うと、
そう、言われることもありました。

それの、何が関係あると言うのでしょうか。
生きたくても生きられない人がいるのなら
死にたくても死ねない人だっているんです。
生きたくても生きられない人は、切ない。
生きたくても生きられない人の為に、何かできることはないかと、考えます。死にたい私だって。
だけど、私だって死にたくたって死ねない人なんだ。
そのことに関しては無視なのか。
私の死にたさは、いつだって無視されてきました。
生きてしまっているがゆえに。
でも、
死んだら死んだで、その原因は何かとか、言われてしまうのでしょう。
誰が生きたくて生きてるって言ったんですか?
私がいつそう言いましたか?
私の死にたさに、向き合って寄り添ってくれましたか?
そんなこともできずに、「生きたくても生きられない人がいるから」だなんて。
理論崩壊にもほどがあると思います。

生きたくても生きられなかった人の為に
私が生きて、何の意味があると言うのでしょう。
それなら、私は、生きたくも生きられない誰かのために死にたい。

それには臓器提供という方法があります。
臓器提供を待つレシピエントの皆様は、
きっと自分が、誰かの死を待っているということに葛藤を抱くのでしょう。
自分が生きるために、誰かの死を待たなければならない。
そんな自分に嫌気がさして、そんな自分こそ死ねばいいのだと感じることも
きっと少なくないはずです。
けれど、「生きたい」という想いそのものは、絶対に悪いことではない。
この世に生まれ、生きてきて、更に生きたいと思うこと。
なにも間違っていません。
でしたら、死にたい私が、死んでその人のための力になりたい。
誰かの死を望む背徳を、自身の死を望むことで相殺したい。
ただ、そのために行う自殺は、とてもとても難しい。
ただでさえ難易度の高い自殺の方法の中でも、
それを目的とした自殺はより難易度が高いです。
それでもそれを実行したかったから、
とてもとてもよく調べました。
どうあれば、内臓がきれいな状態で、ドナーとして活かされるのか。
かんがえて、考えて、調べて、しらべて、

それでも私は
そうなることはできませんでした。

今も、
生きたくはないのに。

もう、人生を満喫して、
十分だと思うのに。

まだ、私は、誰か死なないと生きられない人の為に死ねない。

情けない。
私は私のためにしか生きていない。
誰のためにもなっていないのです。

酷く傲慢だと思います。
誰かの為にだなんて。
でも、
誰かの為になってみたくて、
それが、かなえられなくて。
私は、

なんのために生きていけばいいのでしょう。
生きて、死ねばいいのでしょう。
悔しい。
私は、そんな誰かの為に死ぬことが出来るはずなのに。
そうして誰かが生きていく糧となれるはずなのに。

これはだれでもできること。
私じゃなくてもできること。

ああ
私は、生きたいのでしょうか?
生きたいかどうかもわからないのに、
今日も、生きたくても生きられない人たちが死んでいきます。
どうして私が生きて、もっと生きたい誰かが死ぬんでしょうか。

あなたは、
生きたくても生きられない人たちに、
命をささげることが出来ますか?
どうして私にできないのか
私にはわかりません。

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