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生還2

生きるためのプログラム

一ヶ月間悩まされた腹部の痛みは、主に左側半分で起きていて、時には下わき腹が絞られるような感覚に襲われることもありました。しかし、病変は中央上腹部に見つかったのです。確かに、みぞおちのやや下あたりにも痛みはあり、張るような感じはしたものの、こちらはむしろ後から加わった症状のように思っていたので意外でした。
消化器内科で私の主治医となってくださったK先生からは、エコー、CT、そして造影CTと検査をした段階で「横行結腸にできものがあって、それが腸壁の外側にも影響して膿瘍を作っているのではないか。あるいは、できもの自体が腸壁に浸潤しているかもしれない」という主旨の説明を受けました。
そしてK先生は、なるべく穏やかに、ただしごまかすことはなく、この「できもの」が悪性である確率が高いことを伝えてくださったのです。
「命にかかわる」という言葉の意味が、ここで腑に落ちました。なるほど、それはかかわりますな……盛大に、かかわりますわ……私の正常性バイアスもきれいに外れました。筋肉痛じゃなかったのです。
この時点で最も可能性の高い診断名は「横行結腸癌」でした。

私は三人姉妹の長女として育ちましたが、今は妹がひとりいるだけです。末の妹は大腸癌から再発・転移を繰り返した挙句、若くして他界しました。そのため、科学的エビデンスとは別枠で、私にとっての大腸癌は「治る癌」ではないのです。「ああ、死ぬかもしれないんだなあ」とやけに冷静に感じました。その一方で、「死」そのものをどう捉えていいのかが分からず、私の人生が「終わる」ことだと自分なりの答えを見つけるまで、相当時間がかかったのを覚えています。
しかし、その間にもK先生は着実に治療プログラムを構築し、実行に移してくださっていました。それは「死」を理解しようとしている私の方向性とは真逆の、「生きるためのプログラム」でした。

最終的な治療の目標は、病変部位の切除です。ただし、そこへ至るまでに必要な準備、乗り越えるべき障壁があることを、丁寧に説明していただきました。K先生はこの時すでに外科のT先生と連携を始め、一緒にプランを立ててくださっていたようです。
このプログラム――治療計画は、最終目標から逆算するかたちで練られ、複数のアプローチが同時に進行するようにして成り立っています。また、消化器内科から外科へスムーズに移行されるような配慮もされていました。

まずスタートしたのは全身状態を改善する処置です。何しろ、ここまでのひと月以上まともに食事をしていないうえ、癌細胞に栄養を奪われていたのでしょう。発症前の中年太り状態から激やせしていました。私が最も輝いていた20代の時の適正体重に戻った、といえば戻ったのですが、見た目はだいぶ違います。「げっそり」という表現の最適な使用例でした。それだけなら「年齢が年齢だからね」で済みますが、血液検査の結果がよろしくないわけです。かと言って、食べるわけにもいきません。この時の大腸の状態、さらに検査や処置のため絶食する必要があったのです。
そこで、手始めにカテーテルを挿入することになりました。高カロリー輸液の点滴と輸血を行うことで貧血と低栄養の状態を改善する、というのです。いよいよこのあたりから、今までの人生で一切経験したことのなかった処置を受けることが増えてゆきます。高校生の頃から貧血症状のため薬を飲むことは度々ありましたが、輸血とは……。輸血か……献血してくれる方々がいるから、輸血してもらえるんですよね……。本当に感謝しなければなりません。献血してくれる皆さん、ありがとうございます。今まで私は数回しか協力したことがなくて、心から申し訳なく思いました。
こんな状態の私でも、誰かのために何かできることはあるでしょうか? すぐに死んでしまうわけじゃない、何か考えよう!それが生還への意欲のひとつにもなったのだと、今は思います。

全身状態を落ち着かせる準備が整ったら、次は諸々の検査です。更に詳しく正確に情報を得るためにはもっと検査が必要なのです。私も、執筆においてもそれ以外の生業にあたっても、とにかく情報を集めて徹底的に準備する質なので、綿密な検査については大いに納得するところです。しかし、スピード感が全く違う……これが医療現場……。この際、経験することはすべて記録しようと考えていた私のメモなど、あっという間に周回遅れの醜態を晒すほどの圧倒的なスピードで物事は進んでいったのでした。

このあと、主治医はK先生から外科のT先生に代わり、いよいよ本格的な治療プログラムが動き出します。多くの人々に支えられ、励まされ、守られながら進むプログラム。
私という人間が生きるための、プログラムが。


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