六月の夫
新メニュー、あじさいのかき揚げとかどうかな、と紗栄子に言われて、幸はうーんと首を捻った。
「毒があるって聞いた気がする」
「うわ。じゃあ駄目だね」
紗栄子は肩を竦めて猪口を傾ける。でも良いアイデアだったよと励ましながら、幸は茄子のひばり和えを出した。彼女は顔をほころばせ、いただきますと箸を伸ばす。こういう笑顔を見る度、この店を継いで良かったなと思う。
幸が母の小料理屋を継いだのは十年ほど前のことだ。小料理屋と言っても洒落たものではなくて、食堂と居酒屋を混ぜたみたいな賑やかで雑然とした店である。
そんなだから、小さい頃はよく店で食事をしていたが、思春期になるにつれ寄り付かなくなって、上京して、そして戻ってきた。地方ではよくある話だろう。
ただ幸が戻ってきた理由は、夫の失踪という突飛な事情だった。夫はある日突然、仕事に行ったまま帰ってこなくなった。専業主婦だった幸は途方に暮れて、赤ん坊だった一人息子と共にUターンしたのだ。
最初の頃は怒りや虚しさもあったが、今は落ち着いている。こうして地元の友人と和やかに時間を過ごせたり、自然を感じられたりと、悪いことばかりでもなかったから。
「お母さん」
「え、誠?」
雨のせいか客の少ない店内で紗栄子と喋っていると、後ろから息子の誠の声がした。ここはカウンターの奥が家と繋がっていて、誠も家の方で寝ていたはずだ。
「どうしたの? 目が覚めちゃったのかな」
時計を見れば十一時を過ぎている。紗栄子に断って寝かしつけようとした矢先、電話がかかってきたと誠は言った。
「電話? 誰から?」
親戚の訃報とかかもしれない。お名前は何て言ってたのと尋ねると、誠はちょっと上の方を見た。物事を思い出そうとするときの癖である。そして誠は、たとたどしく答えた。
「みやましんたろう?」
思わず息を呑む。何年かぶりに聞いた夫の名前だ。頭が真っ白になったその時、ポケットに入れたままだったスマホが鳴り響いた。
【続く】
おいしいものを食べます。