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サイゼリアに行ってはいけない日

家族で外出し、あちこちをはしごしながら気づけばすっかり夕方。朝から公園で走り回り、そのあとは家族みんなそれぞれに洋服を買い、気になっていたベーカリーにも立ち寄った。おいしそうなパンや焼き菓子は、楽しみのぶんだけずっしりと重い。心は満たされたけれど、体はクタクタだ。

夫とわたし、どちらともなく「あ〜ごはんどうしよう、食べて帰る? でもどこで……」とつぶやいた。この時点で、家で作る気はゼロだ。

大人2人なら、どこでも目についた店に入ればいい。でも、子どもが一緒となるとそうもいかない。それなりに分別のつく年齢になったとはいえ、それでもスパイシー系はダメだとか、ラーメンをカウンターでささっと、というのは違うなぁとか、やっぱりある。

駅前で買って帰るか。でもデパ地下をぐるぐるする気力はもうないし、あんなに食べ物に囲まれながら、食べたいものが見つからない途方にくれるあの感じ。疲れているときにそれを味わうつらさは、何度も経験済みだ。

じゃあ出前にしようか、いや、この時間はもう混みそうだし。さてどうしようと考えていた矢先、娘が言った。

「じゃあもう、サイゼリアでいいよ」

言わずと知れたチェーン系イタリアンのファミレスである。わたしも子どもたちも、みんな大好きな店だ。

サイゼリアは最高だ。メニューは豊富、エスカルゴとフォカッチャはおいしいし、ガーリックトーストも熱々カリカリで、ワインはなみなみ(わたし飲まないけど)、テーブルはたっぷりと広く、大人にも子どもにも、お財布にもやさしい。

「よーし、今日はご飯作らないでラクしちゃうぞ〜! 子どもたちとサイゼだー!」と駆け込むサイゼリアはめちゃくちゃ楽しいし、おいしい。保育園のお迎えのあと、居合わせたママたちと「ごはんどうしよー。行っちゃう? 行っちゃえー!」と自転車を飛ばして目指す緑の看板は、キラキラしている。山のようにあるメニューをわくわくしながらめくり、今日は子どもたちとこんなに食べて楽しんで、このお会計!?というお得感に高揚すらする。

でも、違うのだ。「サイゼリアで食べたい!」と、「サイゼリアでいいか」には、天と地ほどの違いがある。今日の気分は「サイゼリアでいいか」である。ダメだ、これは絶対に行ってはダメな日だ。

なぜかざらついた気持ちで、「安いし、時間もないし、しゃーないここでいっか」でサイゼリアに入ると、とんだ目にあってしまうのだ。ワンコインより安いドリアが、疲れてクタクタの気持ちにさらに追い打ちをかけ、食べている自分がとことんみじめになってしまう。

思えばランチを探し求めて歩き回ったあとの、適当に選んだカフェのパスタランチも似たようなことがある。

サイゼリアはいつだって変わらずそこにあるし、きっと全国どこに行っても同じ味で、わたしたちを受け止めてくれる。違うのは自分の気持ちだ。サイゼリア、と名前を挙げてしまったけれど、つまりは代名詞のようなもので、他のファミレスやファストフード、出来合いの海苔弁が当てはまる日もある。かといって、これは高級店ならいいのかという話でもない。高いお金を払って、気分と違うものを食べたあとの虚しさたるや、サイゼリアの比ではない。

結局、その日わたしたちは家に帰り、温め直したご飯でチャーハンを作った。具材はほうれん草と卵だけ。台所に立つまでは面倒だけれど、えいっと始めてしまえば、なんてことはない。

そうして、誰ともなしに「あ〜おいしい〜」とつぶやき、いつの間にか「やっぱり家のごはんが一番いいね」と言い合った。たいてい、いつもそうなるのだ。これが納豆ごはんでも、お茶漬けでも、答えは同じである。この満たされた気持ちは、どこから来るのだろう。

ほんとうに食べたいものを、ほんとうに食べたいタイミングと適正な対価で。食べ物に限らず、買い物すべてにいえることかもしれない。

お金を節約できてよかったね、という話でもないし、我慢を重ねたいわけでもない。大切なお金と時間は、豊かな気持ちや心から納得できるものと交換したい。意外と難しいけれど、わたしたち家族が大切にしていることであり、考えの道しるべにしていることでもある。

(追記)
2021年4月の下書きにあった記事を公開してみました。あれから1年以上が経ち、いまわが家は「ほんとうに必要なもの」「心から支払いたいと思うもの」にお金を払うように、これまで以上に心がけている真っ最中です。そしてそれは節約とはまた違った次元の意識だなと感じています。同じ消費なら、水漏れのように無意識にポタポタとこぼれ落ちるお金をなくし、ここぞというときにエイッと豊かな気持ちになるほうに使いたいものです。まぁ、なかなか難しいのだけれど。

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