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『夜と霧』(V・E・フランクル)


1.「自己啓発本を読むと良い」


 我が出演公演の殆どを手掛け、配信のパートナーでもあり、僕を東京に招いた張本人である玉木青という男がいる。
彼が配信中に「自己啓発本を読むと良い」と語りかけてきた。
僕も幾冊か自己啓発本は読んだことがあったので

「僕も読んだことがある。書店で平積みになっているやつを毎日消費するように読んで、一時的な無敵感を得、そして一日を終え、無力感に苛まれているところでまた自己啓発本を読んで、無敵感を得、そして翌日には…というジャンキーをしていたことがある」

と言うと、

「そういうことで読むと良いと言っているわけではない」

と言い、そして勧められたのが『夜と霧』であった。

 僕でも名前を知っているような本である。
本屋に行くと大体が表紙を広く見せるレイアウトで配置されており書店員の
「読みなはれ」「読んどきなはれ」
を感じさせる本である。
「名著」などとポップがついていることもある。
ナチスのユダヤ人収容所の話だ、ということは件のポップや風の噂などで知っていたが、所謂自己啓発の類だとは思っていなかった。
が、どちらにしろ所謂名著と呼ばれるものは読んでおいて損はない。早速購入し読むことにしたのだった。

考えると玉木青という男は本を進めるのが上手である。
これが『幸せを引き寄せる23の法則と幸せを遠ざける12の失敗』みたいな本を薦められていたならば

「そんな恥ずかしいタイトルの本人生に役立つとしても手にもしたくない」

「仮にもしそれで人生が変わってしまったら、僕は『あなたにもできる!?幸せを引き寄せる23の法則と幸せを遠ざける12の失敗』で人生が変わったんです。と言わなければならない人生になるではないか」

「いや、言わずとも、言わぬと決めたとしてもそういう人生になってしまうではないか」

「幼き頃より反骨心と嫉妬心と集団生活へのなじめなさでここまでやってきて、悪しきことにそれがアイデンティティにすらなってしまっている男が!『あなたにもできる!?幸せを引き寄せる23の法則と幸せを遠ざける12の失敗』で人生が変わってしまったら!」

「僕は僕の今迄の人生に申し訳が立たない。人生が変わってしまえばそんなこと恥ずかしくもなく気にならなくもなるかもしれないが、やはり僕は今までの自分の人生にも自己愛があって己可愛く思っている」

「そういう自分をこそ打ち破る本なのかもしれぬ」

「しかし読む前の僕はやはりそういう自分と地続きの自分であるから、どうしてもその本に触れる気にはならない。もし読んで自分が変わってしまったら!恐ろしいことだ!」

「変わってしまった自分の為に今泣こう。遠回りでもいいからもっと重厚な本で人生を変えたかったしくしくめそめそ」

というような一人独白爆発の塩梅になるのは必定である。
それを防いで余りある『夜と霧』の名著感。良い本を薦めることと、良い本を読んでもらうことは似ているようで大きな隔たりがあるのだ。

2.「苦しむ中でどんな風な精神的な選択をするかがお前の人生であり、お前の人生の固有性や」


 実際、読んだ。
これが大変に面白い本であった。
強制収容書の話であるから面白い。と書くのは憚られもするのだが、面白かったのだから仕方がない。
著者であるフランクルという人は精神医学を学んだ医者である。
そのフランクルがユダヤ人であるが故にナチスの強制収容所にぶち込まれ、そこで言後に絶する酷い扱いを受け、その扱いを精神がどう受け止めたか、あるいは周りの人間はどうであったか。そういうことを書いてある本だ。
起こったこと、を書くだけではなく、起こったことに対しての精神の動き、を専門家の手によって逐一書いているのが大変に興味深い。

 フランクルは収容所の人間扱いされない。財産から名前からすべて奪われて、生死すら問われずに、肉体さえ飢えによって食い尽くされていき、番号としてしか扱われない終わりすら見えない空前絶後の苦しみの状況でもなおそれでも生きていること、生き続けること、生き続けなければならないって何やねん、というところに至っていく。
  
 読解力に難があるので、正しい読みかどうかはわからないが、ともかくこの本で僕が大変感銘を受けたのはそのあたりである。
僕はよく
「苦しい」
「死にたい」
「一人にしてくれそして死なせてくれ」
と思う人間である。
これは苦しみから逃げ出したい、苦しみのまま生きていくのがダルい。
つまり生きるってよりも死んだほうがマシって考え方もある。というところから来るわけだ。
が、この本は

「そんなん言うとらんと苦しまんかい」

と言ってくるのだ。

「んなあほな」

である。

しかし読み進めていくうちに

「お前の苦しみはお前固有のもので、それと相対していくのがお前の人生の固有性だ。苦しめ。苦しむ中でどんな風な精神的な選択をするかがお前の人生であり、お前の人生の固有性や」

というようなことが書いてある。

正直

「おお」

と唸った。

何だか自分の苦しさが向き合うに足るものに思えてきたのだ。
その苦しさから逃げたくて、死にたい消えたい、と思っていたのであるが、そのように
「お前だけのもんや」
と言われたら
「ほた向き合ったろうやないかい」
という気になるものである。

何とも思っていなかった女の子に告白されて、ちょっと気になってしまって好きになってしまうのってこういう気持ちなんだろうか。
ちょっと違うか。

いや、でも、苦しいと思ってきたことの貴重性が上って向き合うに足る感じになったという印象。これは大きいと思う。短絡的に死にたい、という方向には行かなく慣れた気がする。死にたさも苦しさととらえて向き合うことができるようなそんな感覚。

苦しい運命を引き当てた人が、苦しみを引き受けることによって、二つとない何かを成し遂げられる可能性がある。というようなことが書いてあるのだ。ロマンチック。

3.「暫定的に無期限」は最悪


 『夜と霧』は収容所の問題を書いている。
けれど、その実収容所を象徴とした世間一般の苦しみについて書いていると読むこともできる。
いやさ『あなたにもできる!?幸せを引き寄せる23の法則と幸せを遠ざける12の失敗』(そんな本は存在しないが)と違って何かを即解決してくれるわけではないが、ありとあらゆる苦しみと向き合う心根を太くしっかりさせてくれる。
容易に死に逃げず、死を考えるということに逃げずに考えることをしたくなる、僕にとってはそういう本だった。

 あと、個人的には、終わりのない収容生活の、その終わりの無さこそ人を絶望させる、という話が随分と響いた。
僕も修行期間を他の一門と違って定められていなかった。つまり終わりのない修行の中にいた経験があるからだ。
あれは、結構すり減るものだ。

 講談落語の前座修行は一般的に3年とか4年とかで、しくじりをすると長くなったり、出来がいいと短くなったりする。

『夜と霧』的に言うと
「暫定的に有期限」
というのが一般の修行である。

時々絶対にもう年数で前座修行が明ける、という
「確定的な有期限」
の修行もある。

しかし我が年季明けまでの修行は
「暫定的に無期限」
であり、この暫定的に無期限というのは『夜と霧』に書かれている収容所の特徴である。
「暫定的に無期限」は最悪。本当に辛い。いつまで続くかわからない苦しさがどれほど人をすり減らすか。
もちろん我が修行は収容所とは比べ物にならないくらい愉快で楽しく豊かな日々であったが、それでも絶望を感じていた理由はおそらくそれだ。

実際に年季明けした期間を最初から修行期間として認識できていたら、きっと絶望は幾分か少なかったろうと思う。

そしてあの時この本を読んでいれば、あの苦しみとも別の対峙の仕方が出来ていただろう。おそい。のろまである。

4.「『夜と霧』に力を貰いつつ」


 読み終わって玉木青という男が心底恐ろしくなった。
あいつは僕の人生の課題を僕よりも絶対に考えていない癖に、僕よりもわかっているのだ。頭がいいから。悔しい。

 下手の考え休むに似たり。というがさにあらず。
はたから見ると休んでいるのと一緒でも、こっちはこっちで苦しんでいるのである。
他の人から休んでいるように見えており腹立たしいという苦しみにも『夜と霧』に力を貰いつつ向き合っていこうではないか。力を貰うだなんていよいよ自己啓発である。
あの頃のように一日で効果が切れなければよいのだが。



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