講談・陰謀論・自己啓発
講談を作るときに一つのやり方として、まず史実を追う。
この時に資料の信頼性をそんなに気にしないで済むのが講談の特徴だろう。。
おそらく歴史学的、研究的には間違っているであろうことも「資料が残っている」「地元に伝わる言い伝え」と言ってしまって本当みたいに語る。
だから龍が出てきたり、1人の豪傑が3000人を倒したりもする。徳川家康が実は大阪夏の陣で死んでいたり、源頼朝が北条政子に夜這いをかけたりも。
そして、ここからがウソでここからは本当、という切り替えは行われない。
全てが粛々と、本当のこと、というていで語られていく。
そんな事実と嘘の境界線をわざと曖昧にすることによって立ち上がる世界が講談の世界だ。
こう書くと陰謀論とかと相性がよさそうだけれどそれはちょっと違う。
「講談師観てきたように嘘を言い」という古川柳が残っている。
講談は嘘を語る芸能である。
しかし、講談師が観てきたように語るで、観客は目の前で語られている講談に真実味を感じて引き込まれる、また引き込む技術が講談600年の歴史で連綿と紡がれてきた。
が、観客が日常に戻った時に「あれは芸能であった、演芸であった」ということを思いだす。
「講談師、観てきたように嘘を言い」なのだから。
つまり事実をありのままに伝えられたのではなく、ある程度は嘘である、というエクスキューズを観客は持って演芸場を後にすることができる。そこで面白かった、と日常に戻る観客もあろう。
しかしそれだけではない。
その講談師にその講談を語らせた何か、つまり資料や言い伝えや、文献や資料に残っていない空白・間隙があったのは事実であるから、もしや、と思うスリルを感じることもできるのだ。
スリルが産む快感。この快感が僕は好きだ。師匠の作った創作講談にはそういう部分がかなりある。『風神雷神図屏風の由来』はその意味では白眉だろう。読んでいる皆さんもいつか聴いてみてください。
陰謀論の話に戻るが、講談を聞いても一般的な陰謀論のように「世界の実相は実はこうである。これは事実だ、これだけ証拠がある。他の人は知らない真実を私は知っている」という感じにはならないのだ。
ある種陰謀論は陰謀論の世界観で世界を確定させるやり方で、講談は、世界に疑いを持つところまでしか招いてくれない。
僕はこの世界に疑いを持つ態度、というのはかなり自由な態度ではなかろうか。と思う。
今正しい歴史、とされていることも、研究が進んでいくにつれてひっくり返ることはあろう。
そのひっくり返りの歴史が歴史学だと思う。
つまり今正しいとされているものは、今正しいとされていることではあるが、未来永劫正しいことではないかもしれないのである。
今正しいとされていることは正しくなくて、正しいのはこれである。と提示するのが陰謀論だ。
講談は正しいとされていることだけではない可能性をストーリーで示す芸能。
この講談思考は応用も効く。今正しいとされているが、自分を苦しめていること、を疑うことができる。
陰謀論は示してくる正しさが「間違っている」ということがある。眼も当てられない。
講談は疑うとこまでしかいざなわない。疑わせて、可能性を見せるだけだ。
しかしそれってかなり気が楽になることだ。
正しいことに真正面から立ち向かって負けたり、正しいことに背を向けて陰謀論に走って人から白い目で観られたりするのではない。
正しいとされていることを疑って、正しさの絶対性を疑って、自分に合った逃げ道を探す、ということだってできていくはず。
さて。じゃあお前はどうなんだ、という声が脳内に響く。
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