強くなりたいと強く思う(精神力編)
強さには種類がある。
まずはわかりやすいのが腕力。
この前ザ・ファブル2をみてその圧倒的な強さに影響されたばかり。
どんなピンチが襲ってきても戦闘能力の高い自分なら、特定の恐怖のほとんどが減るだろうな…と思った。
他にも強さを示すものに心の広さや、人間力の深さ、ポテンシャルの高さなどもある。
そして思った。強さに種類がるように怖さにはも種類があると。
お化けや霊など目に見えないものに対する怖さ。
人の裏切りに対する怖さ。
貧困や健康など生活を害する怖さ。
あらゆる怖さを克服するにはでは、どうしたらいいのだろうか?
それは怖さがどこからくるか考えてみるとわかる。
失うことに対する気持ちこそ怖さの元ではないだろうか?
じゃあ、何かを失うことに怯えなくても大丈夫だと思える絶対的な信念があったら?
怖さはなくなるのだろうか。
その疑念が解決するエピソードをこの本から読んだ。
最近、自分に近づいてきている不食のワード。
妙に気になる。ざわつきが好奇心となって関連書籍を今、沢山読んでいる。
不食界で有名な弁護士の秋山さんは食物はをおろか水分もとらないタイプの文字通りの不食者。
彼の体験談を読んでいるとそんな世界があるのかとにわかに信じ難い不食が、アリかもしれないと納得できるから驚きだ。物質的な食物の代わりに目に見えないエネルギーであるプラーナを食べて生きているらしい。
なんかすごい世界だな~と感心してしまった。
秋山さんの不食の事実だけを聞くと世間ズレした変わり者に感じるかもしれないが違うのだ。
頑なくさはなく家族の誕生日にはケーキも口にすることも稀にある。
それは食べたい己の欲求ではなく、家族をお祝いしたい行為にすぎない彼なりの誠意だったりする。
その辺も絶対こうだ!の押し付けや自分の正義や価値観の押し付けがなく優しさを介している。
本から随所にそれが伝わって不食という一見怪しすぎる食べない生き方が単に1つの生き方にすぎないと理解ができる。
そこにわたしは秋山さんの強さを感じた。
秋山さんはある日、講演会にむかっている道中で興味から森に踏み入ってそのままあっさり遭難してしまった。
森で遭難なんて恐怖しかない。
普通は。
遭難日数が長引けば、飢えと渇きの恐怖が襲うはずだ。その状況がつづけば命を失う。
普通は。
やはり怖さとは失うことに対する負の感情なのだ。
普通ならば。
そこで彼はどうだ?
普段から食品と水分を取らずに生きている。
森で遭難しようとも飢えと渇きにたいしてすでに失うものがない。
森で遭難してしまったとき困るどころか大自然に身を置ける豊かさにむしろ快適であったと述べている。
普通じゃない。
遭難に一切の恐怖を介さない彼の生きざまに感動した。
飢えや渇きの恐怖がないはつまりどこにいても生きれる自信。
怖さを完全に克服してしまっているとき人は強くなるのだ彼のように。
秋山さんのターンでの締めくくり好きだと思った。
腕力があれば命の危機を救える確率が増える。
不食であることもこの世から例え食物がなくなっても生きていけるので、生命を維持する生き方を開拓している。
腕力と同じく形は違えど生命の危機を救える。
強さとはつまりなんどきも命が救える術を高確率で自分に備えている人なのだ。
強くなりたい強く思った。
殺しの世界と無縁に生きてきた42歳のわたしがどんなに今から鍛錬してもファブルにはなれない。
じゃあ不食は?
ファブルよりはまだいけるか?
読んだ本のような人たちの様に不食者になりたいのかと問われたらなりたいと即答はできない。
なのに…わたしはなぜ?こんなにも不食の興味がそそらのだろう?
実際なんでもすぐに影響を受けるので今は少し食べるのを減らし空腹の軽さを楽しんでいるせいぜい少食程度。
食にそこまで執着はないけど、まだ不食に移行するほどでもないのが正直なところ。
食に未練があるが近いようような気がする。
家族や友だちと同じものを食べて遊んだり癒されたい心が残っている。
単純に美味しいものを食べたいと思う気持ちがまだ残っている。
剛腕でも不食でもないわたしだけど、
自分になにか絶対的に信じれるものがあれば強くなれるのかもしれない。
まずは自分で自分が信じれたらいいのにな~。
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