9mmの歌詞を訪ねて#1『Living Dying Message』

 

 それは、9mm Parabellum Bulletの2nd Album『VAMPIRE』のラストを飾る『Living Dying Message』という曲の一節を聴いた時だった。

断りもなく溢れ出すのは
忘れたくない思い出ばかり
震える膝に落ちた滴で
たとえ汚れてしまっても
これから先
消えてしまうものだけ
選んで愛したとしても

あなたは二度と孤独になれない
いつか必ず分かる日が来るよ

    「あなたは二度と孤独になれない」。

 その言葉が耳に入ってきた瞬間、何とも形容出来ないせつなさに、胸がざわめいた。
 決して絶望や悲しみの歌ではない。むしろおそらく込められているのは希望に近いのではないかと思う。けれどもただの「あなたは孤独ではない」という温かい励ましとは、何かが違うように感じた。
 いっそのこと「どうせ皆死ぬまで孤独だ」と言われた方がまだ、ここまで心が掻き乱されなかったのでは、とすら思った。

 しかし当時の私はこの奇妙な「せつなさ」を、うまく表現することが出来ないままだった。ただ、同じような思いをどこかで感じたことがある、という感覚を頼りに記憶の中を探し回った。
 そうしてようやく辿り着いたのが──山田詠美さんの「姫君」という本のあとがきだったのだ。少し長くなるが、ここに引用させていただく。

私が死を恐れるのは、後に残した数人の人々が、確実に泣くのを知っているからである。
自惚れと笑ってくださって結構だが、私を取り巻く何人かの人々は、生活レベルで明らかに私を必要としている。
この生活レベルとは、たとえば空気や食べ物と同じくらいということだ。
その人たちの今現在を形作る要素のほんの隅っこに過ぎないけれど、でも、私は確かに存在している。私が死ぬということは、彼らの内から、私分の小さな欠片を抜き取ることである。
そうなれば、しばらくは痛むだろう。
痛ければ泣くだろう。
想像すると眩暈がする程恐ろしい。
だから、私の夢は、死んだときに誰も泣かない、それどころか、その死を祝いたいくらいの嫌われ者のばあさんになることである。

    この文章を読んだ時、ふいに私の中で「Living Dying Message」というタイトルが、あるイメージを伴って蘇った。
 それは「失った人が残したものが、誰かの胸に生き続ける」ということ。
 そしてそれが大切な存在であるほど、「残された人の内側から、失われたもの分の欠片を抜く痛み」を伴って、その傍らにあり続ける、ということだ。

 あとがきは、更に、こう続く。

ある特定の人間を自分自身よりも愛しているのではないか、とふと思うとき、私は、その対象を失う恐怖に身震いしてしまう。
(中略)
愛情の手ごたえを感じてしまったら、人は、もうそれを知る前には戻れない。常に失う不安にさいなまれる。

 「愛情の手ごたえを感じてしまったら、それを知る前には戻れない」──これこそが、あの歌詞に漂っていた「せつなさ」の正体に1番近いのではないか、と。

    何かを大切に思うことは、それを失う恐怖や痛みと隣り合わせである。そして誰かに大切にされていることを実感すると、その相手に自分を失わせる可能性を思って、心が痛む。
 そう、一度でも「愛情の手ごたえ」を感じてしまった人間は、その痛みからは決して逃れられないのだ。
 詠美さんは、そのせつなさを少し茶化すように「嫌われ者の意地悪なお婆さんになることが夢」と綴っているが、それが決して叶うことのない夢であるのは、この文を読んで噛み締めた方々なら感じて頂けるだろう。
 例えどんなに「これから先消えてしまうものだけ 選んで愛したとしても」、一度感じてしまった、何かを心から愛したというあたたかな手ごたえそのものが、決して一人にさせてはくれない。
 もはや「二度と孤独にはなれない」のだ。

 『Living Dying Message』の中で、主人公は「断りもなく溢れ出す」「忘れたくない思い出」のなかで立ち竦んでしまう。
 それはきっと、かつて何かを愛し、情熱を傾け、あるいは誰かに愛された記憶ではないかと思う。大切な記憶だ。たとえ一人きりになったとしても、自分の胸におのずと湧き上がって、寄り添ってくれるだろうほどに。
 でも、その記憶は、必ずせつない痛みも連れてくるはずだ。孤独を和らげてくれるほどに大切な記憶は、裏を返せば、失う時には身を切られる痛みが走るほどに、自分の一部になってしまっていたものなのだから。
 いっそのこと、全て忘れてしまって、一人きりに戻れたほうがずっと楽なのではないか、とも思うくらいに。
 それでも絶対に「忘れたくない」のだ。


 私は9mmの、卓郎さんの書く歌詞には、いつもどこか「やるせなさ」があると感じている。
 それは卓郎さんが、例えば上記の愛し愛されることに伴う痛みのように「まばゆい光の裏側に必ず存在する影」を、どうしても"なかったことにはできない"人だからではないか、と思うのだ。
 きっとその影に目をつぶり、あるいは存在に気づくこともなく、希望を綴る人もいるだろう。そして、そういう言葉こそが欲しいのだという人も。
 それらを否定はしない。でも、見えてしまったものに嘘はつけない。
 そういう慧眼と、それに対する誠実な姿勢からくる一種の「諦め」のようなものが、卓郎さんの歌詞には漂っているように思える。

 そして、その諦めを抱いたまま、張り付く影から目を逸らせないままで──「光」や「愛」や「希望」を、決して諦めずに描き抜こうとする。だから9mmの描くそれらは、どこか胸が締め付けられるような、やるせない眩しさを持っているのではないか、と感じるのだ。
 それは影があるからこそ、光もまた濃くなるかのように。
 あるいは失う恐怖や痛みを知ってこそ、愛情のかけがえのない温かさをいっそう自覚するかのように。

あなたは二度と孤独にならない
いつか必ず分かる日が来るよ
分かる日が来るよ

 「あなたは二度と孤独に”ならない”」。
 失う痛みもひっくるめて、全てを慈しむ覚悟があるのなら、愛情の記憶は、決してあなたを一人にはしないのだ、と。


 ……と、いうわけで。
 こんな感じで気ままに気軽に、ちょっとしたコラム?っぽく、9mmの歌詞について思ったことを好き勝手に、つらつら綴っていけたら良いな、と思っています。
 考察なんて大それたものではなく、あくまで私が歌詞を読んで感じたり、歌詞を起点に思考を飛躍させていったことの記録、といいますか。
 ……そう、色々と飛躍させ過ぎている自覚はものすごーくありまして(汗)。でも卓郎さんの歌詞って、あえて行間を覗き込ませるというか、想像の余地を残すというか、とにかく聴く人それぞれに捉え方をゆだねてくれているように感じるので(本当に懐が深い)。
 そういう沢山の捉え方のひとつ、と思ってくだされば。
 そして、願わくば読んでいて少しでも楽しいものであってくれれば幸いです。

 事実上『9mmの歌詞を訪ねて #0』である前回の「白夜の日々」の話もリンクを付けておきますので、こちらもよろしければ。
 


 

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