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出会い、生活、そして看護。

昨日は社会の新しい一面を見て、
新しい出会いのあった日だった。

そこに集まった人たちは
いろんなきっかけで
会いたい人や
学びたい現実
そのほかの理由があって
そこに足を運んだ人だった。

そこで出会った人との会話が
印象的だったから
noteに残したいなと思った。

名前もちゃんと覚えて帰れなかったことと、別れ際にきちんと挨拶できなかったのが後悔だけど、また行ったら会えるかな。


その人は「この間介護の資格を取得したのだが、働き始めた職場をやめた」ということを自己紹介で話していた。

なんとなく、気軽に聞けることでもないかなと思いつつ
看護と介護は対人援助職としてのシンパシーを感じていたこと
その人のもつ雰囲気が好きな女の先輩の雰囲気と似ていた
という勝手な印象から話したいなと思った。
だけどこういうところでは
人見知りを発揮するのが私という人間だった。

出会った人たち
学生4人と
その人と
おじいさんとで話していた。
おじいさんがたくさん私たちに問うた。

『自分のことを信じているか』
『人に流されることはないか、自分のことを信じ続けられるか』
『自分のことを愛してるか』
『自分で押さえられないくらいの感情の波があるときどうしてるか』
『どんなときに幸せを感じるか』

簡単には答えられない問いだったけど
私もいくつかは自分で思っていることを伝え、
同様にその方も自分の気持ちを話していらした。

「自分で決めた道を進むことがいいのか、でも、流された先で自分で意味を見つけて乗り越えて納得のいく道を歩んでいる人もいる、何が正解か。」

といった話をしていて、
さっきの仕事の話のことだろうな
と思いながら聴いていた。

「結局は進んだ先でしかわからない、結果論なのかもですね」
私が返すとその方は
「ああ〜」
と、納得のような考えたげなような返事をして頷いた。

その後、
「自分には自分でやりたいことがある」
といっていて、それがなんだろうかと、聞けなかったけど気になっていた。


その後も
路上で出会った人と話をしていた。
その場にその方は
いたり、いなかったりした。


最後の道を歩いているとき、
その方が話しかけてくれた。

「さっき何話してたの〜?」

そこで出会った人がいろんな生活歴や家族歴を持っているひとがいるという話をきいていたことを伝えた。かつてはリムジンを運転していたくらいの大富豪だった人や、集団生活の施設の中で人間関係が良くなくて今の暮らしを選んだ人もいるということ。

「今の状態だけを見て、人を判断してはいけない。今の状態になったのはひとそれぞれの背景がある。」ということを改めて思う。

必要以上に相手の過去を聞き出すことはちがうけど、
その人の過去を知らないとその人のことを知っているとは言えないと思う。
でもすべての過去が語られるわけでもないし、
自分の理解者でいてくれている友達にも
自分の中の重要な過去の全てを話しているわけではないから、
過去を知るってどこまで知れば知ったことになるのかわからない。
でも、相手の過去をどれぐらい知っているかに関わらず、
今の相手は今しか向き合えない。
今の私がするべきことは、
今の相手と向き合うこと、
今の相手から語られることに耳を傾けること、
それに尽きる。

「さっき話されていましたけど、やりたいことがあるんですか」
と聞くと、
「あ〜そう笑」
と答えて、その方の介護への思いとかについて話してくださった。
その後の会話の流れをちゃんとは思い出せないけど、

自分はクラスでわいわいしている子ではなくおとなしいタイプだったこと、
職場の雰囲気にはそういう自分はなじめなかったこと

ご自身は訪問介護をやりたいと思っていること
でも、訪問介護はほかのスタッフを見ながら実践を学ぶことができず
ひとりで訪問して介護をするから
長期的に考えると
資格をとってすぐのうちは
施設などの訪問ではない場で
介護の経験を積んだ方がいいのではないかと迷うこと

私の将来の悩みと共鳴したこともあったらしく、
話が弾んで嬉しかった。
違うけど、似ていたことが。


その方はなぜ私が精神科看護をやりたいと思ったのか聴いてくれた。

私の友人の出来事が一番初めのきっかけであることを伝えた。

そして、私もなぜ介護を選んだのか聞き返した。

すると、その方は言った。
「自分が人生で大事にしたいのが生活で、起きたり寝たり食べたり。生活を大事にしたいっていう思いが先にあって、それに関われる仕事が介護だったから、介護にした」
とおっしゃった。

ここにいた〜〜〜!生活というものを大事にしているひと!
そういう仕事が魅力だと思っているひと!!


生活
を支える仕事ってすばらしい!と思って看護を学んでいる人間だから、
勝手に自分の思いに寄せただけかも知れないけど
不意打ちで胸が高鳴った!!

--

看護の役割の本質は
治療の補助でもなく、
療養生活で医者の行わない処置を代理でやることでも、
3Kとか9Kと呼ばれるような環境や仕事をのりこえることでもない。

看護師の本質は「人の生活を支える」ことである。
(自分自身も看護を学び始める前は、生活という言葉が、看護という言葉の近くにはなかった。)

そして、生活は平凡なのに、偉大だ。

生まれた瞬間から
死ぬ瞬間まで
命がある限り、
拒んでも、
望んでも、
「生活」は続く。

愛する人と一緒にいる日も、
孤独な夜にも、
どんなにつらい思いを抱えていても、
ずっと続けばいいのにと願うような幸せを感じていても。

体が思うように動かなくなっても、
家がなくなっても、
誰かと一緒に暮らし始めても、
大事な人を失っても、

誰にでも平等に生活はただそこにある。

私はどこか生活のことを過大評価しすぎているかのしれない。
だけど、生活を支えるということは人生を支えることだ。

そんな職種が私は好き。
どんな仕事も誰かの生活を支えていることには間違いないが、
介護や看護や福祉など対人援助やケアが生まれる仕事に
私はとても魅力と誇りを感じている。
医療という側面に足場を置き、生活を支えることが看護である。

無駄にアツめな、自分の生活支えるラブ!!!の熱量で
いきなり相手を押し倒さないように
これまでの会話と変わらない平然さを保ちながら返答した結果、
「生活って一生続くものですからね」
と、相手が介護を選んだ理由に対する返事としては
意味がわからなげな返答をしてしまい相手を少し困らせた…。笑

何はともあれ、自分の思っていることがその方の悩みと共鳴したところがあったらしく、それで話に花を咲かせられたことが嬉しかった日だった。


他にも
「福祉と看護って似たところありますよね」
とベテランの社会福祉士さんに恐る恐る返事したら、
「関わる側面が違うだけで看護と福祉って似ているよね」
と返してくれて自分の持っている感覚は間違ってないのかなと安心した。

アフリカで見たストリートチルドレンに言われた言葉が
今回この場に足を運ばせたが、
同じような経験でここにきていた人にも出会った。

自分が普段出会わない文脈を持つ人もいた。

たった一度きりで終わってしまう出会いと、
関わりだったのかもしれない。

でも、すべての人間関係は一回の出会いから始まり、
たった一回の出会いで
読みたい本と
買ったばかりのミスチルのCDを
いったん傍に置いて
noteが書きたくなっちゃうほどの話ができたり
このnoteには書かないけど心に残り続ける感覚も
その出来事の影響を受けて構成される私自身もある。

一期一会という言葉に違った意味がみえてきそうだなと思う。

長々と自分の書きたいことをつらつらと2時間くらい書き続けた。
まとまりはないけど、こういう文章が自分は一番スッキリする。
誰かに見られるから最低限の配慮はするけど、
見られることより自分の気持ちを正直に書き出すこと、
そのきっかけがあること、
気持ちにあった言葉をみつけられること、が一番いい。

精神科の実習は人の『生活』を支えるその地道さや難しさ、
看護師としての関わりをまじかで見れてよかった。

今週以降はより、医療に傾いた看護の実習が始まる。
自分の興味とか適正とはずれた場であろうことは容易に想像できるけど、
自分で決めたラインの努力はしつつ、ほーーどほどにがんばる。笑















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