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「バルナバ・オンラインエクレシア」バイブルメッセージから

 教会に行きたくても行けない、何らかの要因で教会には行きたくない、行きにくいクリスチャンや、聖書・キリスト教には興味があるものの教会に行くにはハードルが高くて二の足を踏んでいる方々を念頭に置いた「バルナバ・オンラインエクレシア」のオンライン礼拝を始めて5か月が経過した。
 【参照記事はこちら ↓】

 私たちの神は真実なお方で、必要とされる方にこのエクレシアが知られる所となり、大体5~6名前後の方が月2回の礼拝に参加されており、都合で参加できない方にはアーカイブで礼拝をお届けできるようにしている。
 今回のnoteは4月23日の礼拝メッセージの原稿を加筆修正したものをシェアさせて頂こうと思う。

心配して下さる神

あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

(ペテロの第一の手紙5:7)

「思い煩い」って?

 皆さんは、いろいろな問題を処理しきれないで、様々な思い煩いを抱えてしまうことがありませんか。実はいくら考えてもしょうがない事をずっと考えてしまい、時間と心を無駄にしてしまっている事がないでしょうか。
 例えば、明日雨になるか晴れになるか、明日は何を着ていこうか、というような些細な事でも思い煩いの原因になる事があります。また試験の前に合格できるかどうか、落ちたらどうしようetc.例をあげたらきりがなさそうです。
 しかしあなたがもし10年前に思い煩っていたことがあったとしたら何だったかを思い出してみてください。よく思い出せないのではないでしょうか。10年は極端というならば3年前は?いや1年前はいかがですか?
 もし思い出せたとしたら、その時思い煩っていたことは実際いくつ現実になりましたか?そして思い煩った結果、物事は良くなりましたか?それとも逆に悪くなりましたか?
 そして思い煩ったことによる身体的または感情的な影響はどうでだったでしょうか。すごく良いコンディションで乗り越えることが出来たという人はまずいないのではないかと思います。
 ある統計によりますと、何と、心配したことが実際に起こる確率は多くても10%と言われているそうです。

 そもそも「思い煩い」とはどういう意味なのでしょうか。
 辞書を引きますと「物事に対する考えによって、心に苦痛や違和感を感じること」とあります。確かにそうですね。
 今日取り上げた聖書の箇所では、
「思い煩いをいっさい神に委ねなさい」とありました。心に苦痛や違和感を感じるあなたの状態を全部神様に委ねろ、というのです。「そんなことが簡単に出来たら世話ないわ」と今思っているかもしれませんね。
 ちなみに今日取り上げた新約聖書が書かれた古代ギリシャ語で「思い煩い」は μέριμναν(メリムナン)という言葉です。このμέριμναν(メリナムン)は、心がある方向に進もうとする意志がある一方で、別の要素が異なる方向に進ませようとする心の動きであるという意味を持ちます。車の運転で、アクセルを踏みながらブレーキを踏んでいる状態と言ったらわかりやすいでしょうか。
 私たちは自分が目指す方向に向かって進みたいと思っている一方で、不安や恐れが後ろに引き戻そうとして進めない、ということがしばしばありますね。不安は、私たちが自信を持って前進することを阻害するものです。それは、心の中での矛盾や対立を引き起こし、私たちの行動や判断に影響を与えます。これが、「思い煩い」や不安や恐れの意味するところです。
 それでは「思い煩い」を引き起こす不安や恐れはどこから来るのでしょうか。それは絶対的な者の不在です。全幅の信頼を置くことが出来る、自分を支えてくれる存在がいないのです。だから自分を頼り、自分を信じるしかない。中には素晴らしい友人、家族などに支えられていると胸を張る人もいるでしょう。しかし素晴らしい友人も家族も、あなたがこの世の生涯を閉じるその瞬間まであなたに寄り添い続け、あなたを支え続けられるでしょうか?残念ながらNOです。人の心は移ろいやすく、引っ越しなどで物理的な距離が離れることもあります。それに死別ということも起こるからです。絶対的な者の不在は、究極的には自分しか頼れる存在がいないということになります。

「思い煩い」からの脱出

 だからと言って私たちは、心配、恐れを抱えて思い煩っている状態をずっと抱え続けているわけにはいきません。気づかないよう、見ないようにしていてもいつかはその問題に対処する必要があります。自分の好きなこと、趣味などで気を晴らす、そらすことは皆さんもやっていることかも知れませんが、根源的な問題解決にはなりません。
 しかし聖書ははっきりと対処すべき方法を教えてくれます。それは以下の2つに集約されます。

1.信頼できる支えを知り、信じる
 天地万物を創造され、すべての人間を、すなわちあなたを造られた神を認め、自分の主として信頼することです。旧約聖書のイザヤ書にはこう書かれています。

「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」

(イザヤ書30:15)

  真の創造主なる神を認め、なぜ信頼することが出来るのでしょうか。新約聖書のテトスへの手紙にはこう書かれています。

それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです。
これは信頼できることばですから、私は、あなたがこれらのことについて、確信をもって話すように願っています。

(テトスへの手紙3:7~8)

 真の神から離反し、自分自身を信じることしかできなくなってしまった、いわば神の目に罪人である私たちを救うために、神はご自身の御子イエス・キリストをこの世に遣わされました。この方は私たちすべての人間の、あなたの離反の罪の代償として十字架刑という罰を受けられたのです。罪の一切ない方があなたの罪を全部背負われ死なれました。
 このことによって彼を信じる者は罪のない者とされ(義と認められ)、彼が3日目に死を撃ち破り甦られたことを信じるなら、彼と同様に死んでも甦り、神の相続人、すなわち神の子とされて永遠の命(神の資産の相続権)が与えられます。これは信頼できる言葉だと証言されているのです。
 神の御子、イエス・キリストこそ永遠の救い主であり、常に信頼できる揺るがない支えであります。

2.良いカウンセラーを持つ
 イエス・キリストは旧約聖書のイザヤ書の以下の箇所でこうも預言されています。

ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

(イザヤ書9:6)

 「ひとりのみどりご」とはイエス・キリストのことです。その名のうちの一つが「不思議な助言者」であります。今回はメッセージの主題にフォーカスするために他の呼び名には触れませんが、旧約聖書が書かれた原語であるヘブル語(ヘブライ語)で「不思議な助言者」は、פֶּלֶא יוֹעֵץ(ペレ・ヨーエーツ)という言葉で、「並はずれた、驚くべき、人間の考えをはるかに越えたみわざをなす助言者(あるいは政治的な議官、顧問)」を意味します。英語訳では "Wonderful Counselor"となっていて、こちらのほうがピンときやすいかもしれません。
 私たちは、自分自身のことを自分が一番知っていると思い込んでいますが、実はよく分かっていませんし、自分の人生の問題や身の回りに起こるさまざまな出来事に対処する十分な知恵も力も持っていません。ですから、私たちには、自分の知恵や力を超えた助けが必要なのです。それを認める必要があります。イエス・キリストは人間の知恵や力を超えてわたしたちのうちに働いてくださいます。彼はまさに"Wonderful Counselor"です。
 良いカウンセラーは、クライアントのことを良く知っています。時にはカウンセラーのほうが、その人のことをその人以上に知っていることもあるのです。人間のカウンセラーでさえそうなら、真のカウンセラーはもっとそうなのです。
 イエス・キリストは、全能の神ですから、私たちの過去と現在を知っておられるだけでなく、将来も知っておられます。私たちの過去を癒し、現在を励まし、私たちを将来に向かって導いてくださるのです。この方に助言を求めカウンセリングしていただくのです。

Wonderful Counselor

委ねなさい

 今日のテーマの聖書の言葉に戻ります。
思い煩いをいっさい神に委ねなさい」の「委ねなさい」に注目しましょう。原語のギリシャ語では ἐπιρρίψαντες(エピリファンテス)という言葉が使われています。この言葉は「投げる」という意味です。ギリシャ語辞書を調べても「委ねる」という意味は出てこないので、引用している日本語の訳では意訳と言えるかと思います。直訳すると、「彼にすべての心配を投げなさい」という意味になります。更に ἐπιρρίψαντες(エピリファンテス)という言葉には、「断固とした」という意味があります。したがって、この言葉の意味を考えると、「固い意志をもって、すべての心配を神に投げなさい」と訳せます。心配事を完全に神に委ねることを決意する意味です。
 つまり、心配を捨て、主イエスに全面的に頼る姿勢が ἐπιρρίψαντες(エピリファンテス)です。ただ「委ねなさい」と言われると少し柔らかい印象を受けますがそうではありません。このペテロの言葉は、イエス・キリストを信じる信仰を選ぶか、自分自身で心配事を抱え続けるか強く選択を迫っていることがわかるのです。
 自分の人生を自己中心的に自分だけに頼って生きるのか、それとも自分の人生をイエスの十字架に捧げるのかを彼自らの経験から問いかけているのです。

常に関心を持ち、心配して下さる神

 なぜ、私たちが神にすべてをゆだねることができるでしょうか。 それは、「神が心配してくださるから」だと言われています。「心配して下さる」のギリシャ語は、μέλει(メレイ)です。意味は、「気にする、心配する」。「特に注意を払う、関心を持つ」です。要するに神は私たちに対して、単に心配してくれているということだけでなく、ことさらに気にかけてくださるのです。ギリシャ語を直訳すると、以下のようになります。

ὅτι αὐτῷ μέλει περὶ ὑμῶν
なぜなら、神はあなたについて関心がある

 そしてこのペテロの第一の手紙5章7節は、詩篇55篇22節を引用した言葉であると考えられています。詩篇55篇はダビデの歌ですが、そこでダビデはこう言っています。

あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。

(詩篇55:22)

 この詩篇の中で、「心配してくださる」のヘブル語 כּוּל(クル)は「保持する、世話をする、養う、扶養する、老後を看取る」という強い意味があります。
 ダビデはイスラエルの偉大な王ではありましたが、決して完璧な人生を送ったわけではありません。たくさんの困難に遭遇し、罪も犯し失敗も重ねてきた人物です。それでも悔い改め、神に立ち返り、従い通した人生の中で生み出された言葉が「心配してくださる」のヘブル語 כּוּל (クル)という言葉です。
 単に心配して下さるだけではない、神は私たちの人生の責任をとってくれるお方だと心から告白しているのです。

 預言者イザヤも、私たちの人生に責任を取り、救おうとされる神の愛に満ちた決意を預言しています。

あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。

(イザヤ書46:4)

 イエス・キリストは、私たちに関して、常に関心を持っておられる。とペテロは語りました。しかも、その言葉の元になった詩篇では、わたしたちの全生涯への保証と、神は常に安心をもたらそうと心砕いて私たちを背負って下さる方だということです。
 ペテロは十字架にかけられる前のイエス・キリストを三度「知らない!関係ない!」と否定してしまいました。その僅か数時間前には「死んでもあなたについていきます!」と啖呵を切ったばかりだったのに。
 そんな熱さと裏腹の弱さも抱えたペテロのことを誰よりもご存じだったイエス・キリストは、彼の信仰が無くならないように祈って下さり、立ち直った時は他の人々を力づけてあげなさいと仰ったのです。そして実際に死から甦られたイエス・キリストは、ペテロに「私の羊を養いなさい」と福音宣教のリーダーに任命してくださいました。まさにペテロ自身がイエス・キリストに常に関心を持たれ、心配され、彼の生涯に責任を持って下さる方であることを体験しているのです。
 私たちを愛し、慈しんで、最後の最後まで責任を持ってくれているということが、「心配してくださる」という意味です。それがイエス・キリストであり、神の私たちへの愛の顕れが十字架であり復活なのです。

あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

(ペテロの第一の手紙5:7)


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