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とうきび畑でつかまえて~1、そうだ 富良野、行こう①



1 そうだ 富良野、行こう。



 北海道の中心部にある富良野地方は、人口二万四千人の富良野市をはじめ、南富良野(みなみふらの)町、中富良野(なかふらの)町、上富良野(かみふらの)町と地域が分かれている。JRと路線バスは運行頻度が低く、住民の交通手段はもっぱら自家用車。北海道第二の都市である旭川までJRで一時間の距離だった。
 息吹の住む女子寮から、職場までの通勤路は一本道。民家沿いに歩いて三十分、支給された自転車で十分ほど。地下鉄の満員電車に押し込まれていた毎日と比べると、ペダルをこぐたびに感じる爽やかな風が気持ちよかった。
 富良野の地を見守る十勝岳連峰は日によって姿を変え、朝もやで霞む日もあれば、山肌にかかった雲が波しぶきのように散る日もある。今日は抜けるような晴天、雪の残る山々の姿がはっきりと見えた。
 札幌の生活では決して見られない風景だった。
 やがて職場にたどり着き、息吹は駐輪場に自転車を停める。タイムカードを押すと、売店にはラベンダー色の制服を着たスタッフが揃っていた。
「朝礼をはじめます。おはようございます」
 売店では毎日の朝礼で一日の流れを確認する。年中無休の職場はシフトによって面子が変わるが、売店を取りまとめる店長の黛満久(まゆずみみつひさ)は毎日のように働いていた。
 息吹の働く『ミル・フルール富良野』は、中富良野町にあるラベンダー畑をメインとした観光地だった。
 採用は土産物を扱う売店のショップスタッフ。期間は五月中旬から十月上旬までの長期契約。喫茶店で調理を担当するカフェスタッフや草花の手入れをするガーデナーなど、園内で働くスタッフの職種は多岐にわたる。最繁忙期はラベンダーが見頃を迎える七月であり、多い時で百人を超すスタッフが採用されるらしい。
「お客様から特産品の野菜や果物についての質問があると思いますが、カットメロンや茹でとうきびの販売は七月からなので気をつけてください。お土産用のお菓子は売店『ソレイユ』、軽食のカレーはカフェの『アカシア』です。ソフトクリームはスタンドの『ハマナス』をご案内してください」
 入場料を設けていないミル・フルールでは、売店の売り上げが主な収入源になる。千花模様を意味する社名から売店にはそれぞれ花の名前がおり、息吹の働く売店は園内で一番大きく『ラベンダー』と名付けられていた。
 仕事内容は前職と似ているところが多い。長年接客業をしていた息吹は即戦力になっているが、ひとつだけ慣れないことがある。
「……ドゥーユーニードタックスフリー?」
 それが英語での接客だった。
 ミル・フルールにはたくさんの外国人観光客が訪れる。その大半がアジア圏からのインバウンドであり、いわゆる爆買いと呼ばれる買い占めで陳列棚の中身を空にしていった。
 海外の観光客には免税手続きがある。パスポートの確認、免税用の袋へのパッキングなど手順が多く時間がかかってしまう。日本語を話せる人は少なく、会話のほとんどが英語で行われた。
「プリーズショウミーパスポート」
「――ア?」
 ガンを飛ばすように聞き返され、息吹は怯む気持ちをぐっとこらえる。
 こういう時のために、店内には中国語や韓国語で翻訳した貼り紙がある。それを読んで内容を理解した観光客は、免税を希望するらしく首を縦に振った。
「プリーズショウミーパスポート」
「?」
「パスポート、プリーズ」
「……チッ」
 舌打ち! と息吹は心の中で叫ぶ。
 なぜ海外を旅行しているというのに、日本語はおろか簡単な英語もできないのか。カタコトの日本語英語を話す自分を棚にあげ、息吹は心の中で悪態をつく。
「パスポートを見せてださい」
「パス……?」
「パスポートがないと免税はできません」
 英語をあきらめ、息吹は日本語で話す。観光客は眉間に険しいシワを刻んだままだ。
「パスポート、プリーズ」
「……?」
 もしかして、パスポートがわからないのだろうか。しかし、中国語でパスポートをなんと言うのかわからない。言葉の通じない観光客に苦戦するのは毎日のことであり、やたら舌打ちをされたり喧嘩腰で来られたりと心が折れそうになることが何度もある。
「――ヨウフーチョウマ?」
 いっこうに進まないレジに見かね、声をかけたのは黛だった。
 彼の声に、観光客が鞄からパスポートを取り出す。黛はそれを専用の機械でスキャンし、息吹はその間に免税した金額で会計を行った。
 助け船のおかげで、観光客の対応は無事に終了した。その後ろには会計を待たされ苛立つ客がずらりと並んでいる。無言の圧力に耐え、息吹は猛スピードで会計をこなした。
 観光地の仕事がこんなに忙しいものとは思ってもみなかった。
 バイトの面接は電話で行われた。業務内容は売店での接客および商品管理と清掃。免税業務があると言われていたが、英語については特段何も言われていなかった。
 しかし、いざ蓋を開けてみると英語スキルが必須の職場だった。
 英語を話せないスタッフがほとんどだが、日本語だけでは海外の観光客とコミュニケーションがとれない。息吹は必死に接客用語を暗記したが、アジア圏特有の訛りは余計に聞き取ることができず、中国人には筆談で話すほうが早いこともままあった。
 レジの行列をさばき終え、息吹は額に浮いた汗を拭った。
「店長、対応ありがとうございました」
 乱れたレジ回りを整える黛に、息吹は頭を下げる。年下であろう彼は理知的な眉が特徴的だが、笑うと幼く見える愛嬌があった。
「さっき話してたのって中国語ですよね?」
「ここにいると、嫌でも覚えないといけないので」
 お土産用の小袋を補充しながら、彼は言う。売店ラベンダーのスタッフはほとんどが女性のため、彼がレジの中に入ることは珍しい。
「さっき、何て言ったんですか? ヨーフーなんとかって」
「ヨウフーチョウマ。パスポートはありますかって聞いたんです」
 フーチョウ、と息吹はメモにとる。売店で扱う商品はガーデンで収穫されたラベンダーを加工したものが多く、オイルやポプリなど商品知識が必要になる。質問されれば英語で答える必要もあり、適宜中国語や韓国語を覚えなければスムーズな接客ができない。
「安達さん、午前の休憩に入ってください」
「わかりました」
 立ち仕事のショップスタッフは、昼食時の他、午前と午後に一五分の休憩がある。息吹は財布を握りしめ、隣の売店ハマナスに顔を出した。
「和奏(わかな)さん、おつかれさまです」
「おつかれ、息吹。さっきのラッシュすごかったね」
 同じ寮に住む楢橋(ならはし)和奏は売店ハマナスのスタッフだった。ここではソフトクリームや飲み物のほかに軽食の販売も行っており、彼女はソフトクリームをいつも多めに巻いてくれる。実年齢より若く見えるが、ポニーテールのうなじには息吹が醸せない大人の色香があった。
「これからラベンダーが咲くともっと忙しくなるよ。本州からの観光客も増えるし、アジア圏だけじゃなくアメリカとかヨーロッパとかいろんな国から来るから」
「本当に、毎日が札幌の雪まつりみたい」
「雪まつりってそんな感じなの? 北海道の冬って憧れなんだよね」
 ミル・フルールで働くスタッフは、ほとんどが道外の人間だった。
 パートの奥様たちは地元の人だが、中富良野町に居を構える社員ですら出身を聞くと本州の地名を答える。和奏も神奈川県の出身であり、昨年のミル・フルールを経験するリピーターだった。
「……で、今日も朝ご飯はソフトクリームなの?」
 寮の家賃や光熱費は無料だが、食費は自分持ちである。自炊が経済的だとわかっているが、息吹はあまり台所に立っていなかった。
「朝ご飯をお菓子で済ませるなんて身体に悪いよ。ちゃんと食べないと」
「でも、寮でもいつもそうだし」
 昼食は社割で弁当が買えるため、昼まで乗り切れば良い。仕事終わりにスーパーで半額になった弁当や総菜を狙う息吹の食生活を、和奏はいつも心配していた。
「食生活をちゃんとしないと仕事の疲れもとれないよ。じゃがバターなら腹持ちもいいし、これにしなさい」
 和奏が保温ケースから商品を取り出す。問答無用で渡され、息吹はしぶしぶ受け取った。
 白い発泡スチロールの皿に乗ったじゃがいもは二つ。握りこぶしのように丸い男爵イモと、細長いメークインの食べ比べセットだ。皮が熱ではじけ、芋が軽く粉をふいていた。
 バターが溶け、てらてらと魅惑的に光っている。休憩室に行く時間が惜しく、売店の従業員入口に隠れる息吹を見て和奏が笑う。
 箸を突き立てると、割れ目から白い湯気があがった。
「いただきます」
 誰が聞くわけでもなく呟く。息を吹きかけるのもそこそこに、湯気の上るまま頬張った。
「……熱っ」
 すぼめた唇から湯気が漏れる。火傷しそうになるのも構わず飲み下し、ほうっと息をついた。
「おいしい」
 じゃがいもは年中食べているはずだった。カレーや肉じゃがなど毎日のように食卓にのぼり、ファストフード店に行けばフライドポテトがついてくる。身近な食材を意識して食べることはなかったが、いままで食べた中で一番おいしいと思った。
 じゃがいもを蒸してバターを乗せただけなのに、箸がとまらない。口の中でほろほろと崩れる粉っぽさを溶けたバターが和らげ、口当たりを滑らかにする。息吹はあっという間に男爵イモを食べ終えた。
 唇についたバターを舐め、狙いをメークインに定める。こちらは男爵イモほど皮がはじけていない。箸で割ろうとするとつるつると滑り、割りばしを突き立てた。
 行儀が悪いのは承知の上。見ている人は誰もいない。息吹は大口を開けてメークインにかぶりつく。
「……すっげぇ、豪快」
 笑い声が聞こえて、息吹は口元をおさえた。
 頭隠して尻隠さず。売店の中にほかのスタッフがいたらしい。あわてて飲みこもうとし、ねっとりとしたじゃがいもがのどに詰まった。
「――うっ」
「大丈夫?」
 咳き込む背中をさすられ、息吹はじゃがいもを飲みこむ。潤んだ瞳で声の主を見上げると、若い男性が苦笑交じりに見下ろしていた。
 短く切った髪が爽やかな青年だ。まだ五月にもかかわらず、肌が日に焼けている。息吹の背を撫でる手はたくましく、腕には血管がくっきりと浮かんでいた。
「水、どうぞ」
「ありがとうございます」
 ペットボトルの水を飲み、息吹は立ち上がる。彼は背が高く威圧感があるが、顔をくしゃくしゃにして笑う姿は人の心を一瞬で開く力があった。
「ここのじゃがバター、おいしいでしょ。去年収穫されたものだけど、ひと冬じっくり寝かせた芋だから甘みがあるんだ」
 彼は屈託なく話しかけてくるが、ラベンダー色のTシャツを着ていない。紺色のつなぎを腰に巻き、首にかけた白いタオルに『稲瀬(いなせ)農園』の印字があった。
「穂高(ほだか)、荷運びありがとう。助かったわ」
「いえ、こんなんでよければいくらでも」
 どうやら彼――穂高は関係者らしい。しかしどの部門かわからず、記憶をたどる息吹に和奏が助け舟を出した。
「この子、ミル・フルールに野菜を卸してる農家の息子さんなの。穂高、こちら売店ラベンダーの安達息吹さん」
「いつもお世話になってます。出身はどちらですか?」
「……札幌です」
 息吹の返事に、穂高は目を丸くする。そしてややあってから、大きな声をあげて笑った。
「あんなにうまそうに食べてるから、てっきり本州の人だと思った!」
 彼の目にはじゃがバターを頬張っていた姿が焼きついているのだろう。事情を知らない和奏はきょとんとしていた。
「稲瀬農園は野菜がおいしいって評判なんだよ。ミル・フルールで提供する食材は地産地消にこだわってて、すべて中富良野町の農家から仕入れてるの」
「じゃあ、このじゃがいもは稲瀬農園でとれたもの?」
「じゃがいもは親戚の農園で、うちはとうきび畑なんだ。夏になったらここに朝茹でとうきびの販売するから、楽しみにしてて」
 とうきび――とうもろこしといえば、じゃがバターに次ぐ北海道の観光グルメだ。札幌の大通公園で販売されるとうきびワゴンはいつも観光客が並んでいる。息吹の家でも旬になるととうきびを食べるが、それを作っている農家の人に会うのははじめてだった。
 和奏は帰ろうとする穂高を引き留め、ソフトクリームのコーンを手に取った。
「とうもろこしの種まきっていつから始めるの?」
「だいたいゴールデンウィーク頃かな。今年は雪解けが遅かったから種まきも遅れたんだけど、いまのところ順調に育ってるよ」
 和奏は話しながらソフトクリームを巻く。一番人気のラベンダー味は地元の農家から仕入れた生乳を百パーセント使用していた。紫色に色づいた見た目のとおり、ほのかにラベンダーの香りがするのが特徴だ。
「これ、荷物を運んでくれたお礼。勉強熱心な跡取り息子で、稲瀬農園も将来安泰だね」
「おれはまだまだヒヨッコだよ。じいちゃんほどいい野菜は作れないし」
 お礼を言う表情には少年らしさが残っている。息吹より若く、二十代半ばといったところだろう。じゃがバターを食べ終えた息吹に、穂高は人懐こく接する。
「これからどんどん忙しくなると思うけど、ここのラベンダー畑は本当に綺麗だから、それまで頑張ってくださいね」
 五月下旬はラベンダーの時期には早い。ミル・フルール富良野のガーデンにはマリーゴールドやポピー、キンギョソウなどが咲いている。観光客たちはそれらを愛でながら、穂高と同じソフトクリームを食べていた。



#創作大賞2024#恋愛小説部門


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