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とうきび畑でつかまえて~3、雲の中へ行ってみたいと思いませんか?③

    ○

 翌日の午前三時。息吹は約束通り目を覚ました。
 寮の住人は誰もが眠る時間帯、物音を立てないよう静かに身支度を整える。穂高と連絡先を交換していなかったことに気づき、こっそりと外に出た。
 夜明け前は気温も低く、薄着の身体に冷気が刺さる。身体を震わせながら様子を見ると、駐車場に一台の軽トラが停まっていた。
「おはよ。よかった、まだ寝てるかと思った」
 彼が運転席の窓から顔を出す。さも当然のように「乗って」と言われた。
「クラクション鳴らそうか迷ったけど、ほかの人起こしたらまずいからさ。連絡先交換するの忘れてたわ」
 息吹が乗り込んだのを確認し、彼はシフトレバーを操作してなめらかに発進する。
「どこに行くの?」
「着いてからのお楽しみ」
 外の寒さとは裏腹に、車内は暖房が効いていた。渡されたあたたかい缶コーヒーがありがたい。身体が芯まで身体が冷えていた。
「眠いなら寝ていいよ。しばらく時間かかるから」
「助手席の人が寝てたら嫌じゃない?」
「別に? むしろ、起こさないように安全運転になるかも」
 薄手のアウター一枚の息吹に、穂高がブランケットを差し出す。軽トラにいろいろと積んでいるらしい。息吹は缶コーヒーを湯たんぽがわりにし、ブランケットを身体にかけた。
 車や電車など、乗り物の中ではあまり眠れない体質だった。今日は寝不足のまま行動することになるだろう。休みが終われば繁忙期の連勤が待ち構えており、疲れを癒せないことに少しだけ苛立つ気持ちがある。
 けれど穂高に誘われなければ、まんじりともせず朝を迎えていただろう。
 村崎のメッセージに返事をしようと、入力しては消し、入力しては消しを繰り返した。結局、送信ボタンを押せぬまま今に至る。
 夜明け前の道路はすれ違う車の姿もなく、やがて市街地を抜けるとだだっ広い畑の中を走りはじめる。空は徐々に白み始めたが、山に囲まれた土地のため、朝日を見るのはしばらく後のことだろう。
 車内の会話もなく、息吹は過ぎ去ってゆく景色を眺める。富良野に来たばかりのころは枯れ色だった草原も、いつしか青々と生い茂っていた。それを目で追っているうち、車内の暖かさにほぐされ、眠りとも覚醒ともいえない微睡みの世界をさまよいはじめていた。

 走り続けていた軽トラが停まったのは、午前五時をすぎたころだった。
 穂高がパーキングブレーキを引く音が聞こえ、自然と目が覚めた。寝ぼけ眼をこすりながら車を降りると、見知らぬ駐車場にいた。
 空はすっかり明るくなったが、雲がかかり太陽の姿は拝めない。畳んだブランケットを片付けようとすると、穂高がそれを止めた。
「上はまだ寒いから持っていったほうがいいよ」
「わたしたちどこにいるの?」
「トマムだよ。これからゴンドラで山頂に上がるから」
 地名を出されるが、場所がわからない。スマートフォンの地図を開くと占冠(しむかっぷ)村とあった。中富良野町から八十キロ近く南下したらしい。
 早朝にもかかわらず、駐車場にはたくさんの車が停まっていた。リゾートホテルのツインタワーがそびえ立ち、そこから宿泊客が続々と歩いてくるのが見える。駐車場にはキャンピングカーなど様々な車が並んでいたが、軽トラは穂高だけだった。
「もうゴンドラ動いてるから、並んでもすぐに上がれると思うよ」
「山頂に行ってなにがあるの?」
「それは着いてからのお楽しみ」
 肝心なところをはぐらかし、穂高は料金所でチケットを購入する。乗り場には長蛇の列ができていたが、流れはスムーズだった。
 ゴンドラは四人乗りで、ふたり組はもれなく相乗りになるようだった。列に並んでいると先頭客の行方ばかりを見てしまう。仲良く手をつないで乗り込むカップルを見て、息吹は息を飲んだ。
 後ろ姿が、村崎に似ている。
「なした?」
「……なんでもない」
 穂高に問われ、息吹はかぶりを振る。ただの見間違いだ。そう自分に言い聞かせ、ブランケットを羽織る。相変わらず、身体がひどく冷たかった。
 列の待ち時間に、穂高と連絡先を交換する。アプリを起動するたび、村崎のメッセージを思い出してしまう。穂高と会話をするでもなく、息吹はうつむいて返信を考えていた。
 三十分ほど並んだだろうか、ようやく順番が回ってきた。若い女性ふたり組と相乗りになり、姦しい会話をBGMにゴンドラは登る。
 空は依然雲に覆われ、山頂に登ったところで何も見えないのではと思う。懸念通り、ゴンドラは霧に包まれ視界が真っ白になってしまう。息吹は寝不足の身体を癒そうとまぶたを閉じたが、女子たちはなおも楽しみといった様子で外を眺めていた。
「――見て見て!」
「やばい、すごい!」
 歓声があがり、息吹はまぶたを開いた。
「……やっぱり今日は当たりだった」
 穂高が上ずった声で呟く。いつの間にか霧が晴れ、窓から陽の光が差し込んでいた。
 ゴンドラが頂上にたどり着き、ふたり組は一目散に駆け出していった。続いて息吹たちも展望台へと向かうと、眼下に広がる景色に自然と歓声をあげていた。
「すごい。雲の上にいる」
 息吹たちが訪れたのは、リゾートホテルが経営する『雲海テラス』だった。
 時刻は六時前にもかかわらず、スカイデッキにはたくさんのひとの姿がある。山頂の気温は低く、初夏とは思えない寒さだが、抜けるような青空がすべてを吹き飛ばしていた。
 地上ではどんよりとした曇り空だったが、ゴンドラはその雲を突き抜けたのだ。白い雲が大海原のように広がっている。人の波を縫うように、息吹たちもテラス席に向かった。
「雲海見たのはじめて」
「実はおれもはじめてなんだよ。何回かチャレンジしたことがあるんだけど、なかなかうまくいかなくて」
 興奮をこらえきれない様子で、穂高がテラスの手すりを握る。雲は途切れることなく広がり、時おり突き出る山々がまるで子島のようだ。白い雲が陽の光を照り返し、テラス席はとても眩しかった。
 雲海はその日の天候によって変わるため、遭遇できる確率はそう高いものではないらしい。リゾートホテルのホームページでは前日に雲海予報なるものが発表されるが、それも高い日で五〇%と運次第の世界だった。
 ホテルの宿泊客は早起きせずともゴンドラに乗れるが、予約した日に見られるとは限らない。近場の人間であれば雲海の発生が発表されてから向かうこともできるが、頂上に着いたころには消えてしまうこともあるらしい。
「雲海には太平洋側からの雲が流れてくる『太平洋型雲海』と、低気圧の雲のはざまで見れる『悪天候型雲海』と、気温の変化で発生する『トマム産雲海』と種類があるんだってさ。ここまで広がってるのは全面雲海っていって珍しいんだよ」
 何度もチャレンジしているだけあって、穂高も雲海の知識が深い。ゴンドラは絶えず運行し、テラスは人であふれていた。
 どこまでも続く広大な雲海は、いくら見ても飽きることがない。息吹はうっとりとため息をつく。
「綺麗。ずっと見ていたい」
「初チャレンジで雲海が見れるなんて、息吹は運が強いな。おれひとりだったら絶対見れなかったと思う」
 山頂は遮るものなく風が吹き付ける。化繊のブランケットは風を通し、その寒さに息吹は身体をふるわせた。
 隣ではカップルが記念撮影をしている。自撮りをするふたりに気を遣って身をよじると、穂高が息吹を手招き、彼の腕と手すりの中にすっぽりとおさまる。
「寒い? 上着貸そうか?」
「ううん、大丈夫」
 背の高い彼が風よけになっていた。窮屈さは感じないが、すぐそばで吐息を感じる。
「連れてきてくれてありがとう」
 腕の中では聞こえづらいのか、穂高が顔を寄せて声を拾う。
「昨日、元気なかったから」
「トワさんとの話、聞いてたんでしょ?」
 昨夜、穂高が運んだ洗濯物は乾燥機の熱が冷めていた。息吹の指摘に、彼は「ばれたか」と舌を出す。
「立ち聞きするつもりはなかったんだけど、ごめん」
「別にいいよ」
 彼には様々な姿を見られていてた。いまさら羞恥心を感じることはない。
「おれは息吹みたいに本腰入れて婚活をしていないから、みんながどういう気持ちでやってるかはわかんないけどさ。そいつがしたことは、同じ男として許せないと思うよ」
「お付き合いしようって、言質をとらなかった自分も悪いんだよ」
「でも、婚活で会った人なんだろ? 何度も会っていたなら誰だって付き合っていると思うし、その男がやっていたことは立派な二股だと思うよ」
 朝の絶景には似つかわしくない内容だ。しかし、雲の上のすがすがしさにつられ、話に湿っぽさはなかった。
「息吹は先輩に全部話してよかったんだよ。その男は結局、自分が悪者になりたくなくて、息吹の優しさにつけこんだだけなんだから」
 彼との交際を打ち明けられた時、一緒に新店舗の準備をしていた時、息吹には話すチャンスがいくらでもあった。けれど、彼が残した言葉が棘のように刺さり、終ぞ真実を伝えられないままだった。
『君が傷ついているのはわかる。傷つけてしまったのは本当にすまないと思っている。だからといって、それが彼女を傷つけていい理由にはならない』
 その棘が、いまも抜けない。
「……話したらチーフが傷つくから」
「だからって、なんで息吹がひとりで傷つかなきゃいけないんだよ」
 この話を打ち明けたのはトワがはじめてだった。友人も家族も、誰も真実を知らぬまま、息吹が突然仕事を辞めて婚活に明け暮れていると思っている。
 そしてその真実を、穂高が知った。
「もう一年も経ってるんだよ。いまさら話したって、わたしがわざと黙っていたって思われるでしょう」
 話さなかった。話せなかった。事情はともあれ、時間が経てば経つほど、息吹は彼の悪事を擁護していたことになる。
 穂高に言われれば言われるほど、自分が責められているような気持ちになった。
「……それじゃあ、どうしたら息吹の傷は癒えるんだよ」
 手すりを握る穂高の手に力がこもる。腕の中で振りむき、息吹は小さく笑った。
「どうして穂高がそんな顔するのよ」
 彼は今にも泣きだしそうな、くしゃくしゃな表情をしていた。
「わたし、ずっとふたりが別れればいいって思ってたの。自分が傷ついたぶんだけふたりも傷ついて、それで、そのふたりを笑いながら自分だけが幸せになろうと思ってた」
「そうやって婚活して、結局また自分を傷付けてるじゃないか」
 その低い声が耳に響く。呆然と、息吹は穂高を見上げた。
「息吹はずっと傷ついてたんだ。だから富良野に来た。そしてまた婚活をして、それでまた傷をえぐってさ。なのになんで、全部自分が悪いって顔するんだよ」
「だって、わたしは……」
 婚活で選ばれないのは自分に魅力がないからだ。自分が村崎に真実を隠している卑怯な人間だからだ。
 どんなに婚活を繰り返しても、心の奥底で、自分は幸せになれないと思っていた。
「……チーフに、あやまりたい」
 震える唇とともに、息吹の目から涙がこぼれ落ちた。
「突然辞めてごめんなさいって、迷惑かけてごめんなさいって。結婚のことも、ちゃんと、おめでとうって言いたいのに」
 けれど、言えない自分がいる。肩を震わす息吹に、穂高はそっと身体を寄せた。
「……ごめん、せっかく連れてきてくれたのに」
「いいよ。どうせ誰も見てないから」
 彼は身体で息吹を隠していた。服の上からでもわかる厚い胸板のぬくもりが、よけいに涙を誘う。息吹は嗚咽を押し殺すだけで精一杯だった。
「雲と霧って実は同じ水蒸気で、自分がどこにいるかで見え方が違うんだってさ。地上にいる時は空に浮かぶ雲に見えるけど、雲の中にいる時は真っ白で何も見えないじゃん? 結婚もまだまだ先のことだと思っていたら、いざ自分に迫ってくると近すぎて何も見えなくなることがあるよな」
 二十代前半のころ、早くに結婚する友人もいたがそれは遠い存在だった。いつか自分も年頃になれば、自然と相手が見つかるだろうと漠然と考えていた。
「この雲海みたいに、雲を突き抜けてはじめて見える世界もあるんだと思うよ。いまだってきっと、おれたちをバカップルだと思ってる人だっているだろうさ」
 穂高の腕の中におさまる姿は、人目もはばからずいちゃついているように見えるかもしれない。穂高は自嘲しながらも、手すりをつかむ手を離そうとはしなかった。
 寝不足で冷たかった身体が、すこしずつあたたまっていくのを感じる。泣き腫らした顔を見られたくなくて、息吹は彼の胸を借りたまま呟いた。
「……富良野にいる間に、いろんな景色が見てみたいな」
「いいところはさくさんあるぞ。同じ場所でも夏と秋で全く違うように見えるんだから」
 宝探しをする少年のように、彼が言う。その子供っぽさが嫌いではないと息吹は思った。
「雲海のほかにも、綺麗なところたくさん教えてくれる?」
「もちろん」
 力強くうなずく穂高の胸から、息吹はようやく顔を離す。
「もうすこしここにいてもいい?」
「いいよ。雲が消えるまで見ていよう」
 腕の中の息吹を見つめ、彼は顔をくしゃくしゃにして笑った。
「ひどい顔」
「うるさい」
 彼の胸を小突き、息吹はようやく笑った。
 帰り道の軽トラの中、穂高はまた安全運転に徹した。車内は会話もなく、聞こえるのはラジオの音と息吹の寝息だけだった。


#創作大賞2024 #恋愛小説部門

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