あこ

目の前に、山がある。
いいや違う、私は山に登っている。岩を乗り越え、枝にしがみつき、必死に前に進もうともがいている。

いつから登っていたのかも、どうして登り始めたのかも覚えていない。
初めはだれかと登っていたような気がする。けれど、いつの間にかみんな違う道を選んで、遠くから声がかすかに聞こえるだけになった。

とにかく、高いところに行きたいと思った。
人より高いところへ。
昨日より高いところへ。
近道があれば多少無理をしてでもそちらを選んだし、停滞することは許さなかった。

あたしには、同伴者がいる。7歳くらいの、小さな子ども。
物心ついたときから一緒にいて、ずっと一緒に歩いてきた。
あたしたちは一緒にいなければならなくて、あたしはずっとその子の面倒を見てきた。
あたしたちは二人きりだったから、お互いの名前は必要なかったけれど、ここでは便宜上その子のことを「あこ」と呼ぶことにする。

山に登りはじめたころは、あこと二人、手と手を取り合って仲良く歩いていた。あこは気分屋ですぐに機嫌が良くなったり悪くなったりしたけれど、あたしはあこが笑っていると嬉しかった。
昔々、ずっと昔、まだ自分が歩いている道が山だと気が付いていないころ、あこはあたしよりも先を歩いていた。あたしの手をとって、はやくはやくとせがんだ。強く手を引かれて転んだこともあったけど、あこが楽しそうだからいいかと思った。

だけど、ある日、ふと上を見たあたしは、自分よりずっとずっと高いところからこちらを見下ろしている人影に目を奪われた。そのひとはとても綺麗で、とても格好よかった。
あたしは、そのひとに追いつきたいと思った。そのひとと同じ高みに行かなければならないと思った。

目の前の岩にかじりついて無理やりにからだを持ち上げる。迂回する道が横目に見えた、だけどあたしはそちらを選ばなかった。
あこが下であたしを呼んだ。不安そうな顔をしていた。あたしは大丈夫だからとほほ笑んで、あこを引き上げた。

それから先はあたしがあこの手を引いた。
あこは上にいく度に怖いと訴えた。不安だと首を横に振った。あたしはその度に上には素敵な景色があるよと宥め、時にはこの程度登れなくてどうするのと叱咤し、上に登った。

あたしはとにかく上に行きたかった。登り続けなければならないと思った。留まることが怖かった。歩き続けなければ、自分の価値がなくなってしまうように思った。
あたしが上に行こうとするとき、あこはいつも嫌がった。あたしはそんなあこを無理やり引きずり、上を目指した。あたしにとって上を目指すことは正義で、どうしてあこがいやがるのか分からなかった。
あたしは途中から、あこの話を聞こうとしなくなっていった。うわべの言葉で宥めすかし、時にはごまかしながら前に進んだ。

そうしていたら、いつの間にか、あこが何を考えているか分からなくなった。
あこに表情がなくなった。
そして、不思議なことにあこは成長しなくなった。昔のあたしたちは双子のようだったのに。今のあたしたちは、ずいぶんと年の離れた姉妹にしか見えない。

そんなふうに過ごしているうち、あこがなんの前触れもなく、突如として泣き出すようになった。あまりにも突然大泣きするものだから、あたしはとても困った。どうして泣くの、と聞いても答えてはくれない。ただ、いやだいやだと泣き続けるのだ。あこが泣いていてはあたしも前に進めない。もっと上に行かなければと、あたしは急いているのに、そういうときのあこは頑として動いてくれなかった。

だんだんあたしはいらいらしてきた。
いやだいやだと泣いてばかりのあこが、憎たらしくなった。どうしてあなたはそんなに小さいままなの、と詰った。なにがいやなのか、どうして泣くのか、分からなかった。分かろうともしなかった。
あたしはあこが煩わしかった。あこなんていなければいいと思った。

あたしはあこを背負って歩き出した。相変わらず泣いている。うるさい、重い、いいかげんにしてほしい。そう思った。

私が歩いている道の隣のがけを、だれかが登ってくる。道を歩くよりよほど早いスピードで、あっという間にあたしの隣まできた。
「そんなに急いで、どうしたの」
あたしは聞いた。
「あの峠まで行きたいんだ。あの方角から見る景色はきっと綺麗だからね」
そういって、彼は彼方を指さした。彼の目線の先にある峠には、雲一つなく、美しかった。
「きみこそ、そんなに頑張って、どこを目指しているの」
彼が聞いた。分かり切った質問に、あたしはなぜそんなことを聞くのだろうと不思議に思いながら口を開いた。
「あたしは、」


あれ、どこをめざしているんだっけ


あこが泣いている。
あたしは必死に考えた。あるに決まってる、あたしの目指すところ。だってそのために頑張ってきた。
そうだ、あのひとに会うためにあたしは登ってきたんだ。あたしは上を見上げた。
あのひとは、あの日と同じように私よりもずっと高いところから見下ろしていた。彼女の場所はどこだろう。じっと目を凝らすと、彼女は葉擦れとともにゆらりと消えてみえなくなった。
あわてて目を閉じる。開く。意識しないでみるとそこに彼女はいる、だけど、目を凝らすととたんに消えてしまうのだった。
その時、あたしは初めて後ろを振り返った。昔歩いた道がはるか遠くに見える。
ああ、この場所は。昔私が彼女を見たとき、彼女がいた場所だった。
あたりを見渡した。この場所は、足場は悪くて視界も開けない、お世辞にもいい場所ではなかった。
あたしが目指す場所はここじゃない、と思った。

あたしが追いかけていたものは蜃気楼だった。常にあたしよりも上にあるけれど、絶対においつくことはできない。
道の彼方を見つめた。私が歩く道の先は雲に覆われていて、頂上はどこにも見えない。あとどのくらい歩けばいいのか、見当もつかなかった。

あこが泣いている。あたしも一緒に泣いた。
どこにいけばいいの
なにを目指せばいいの
あたしが登る山は、ここで本当によかったの

「吾子、」
あたしはあこを抱きしめた。あこもあたしを抱きしめた。
数年ぶりに、ちゃんとあこの顔を見た。泣いてばかりだったあこの顔は、本当に幼くて、あたしが重いからと捨ててきたものを、全部その手に握っていた。
私は、ようやく私に出会えたのだと思った。

どっちに向かえばいいかなんてわからない。
だけど、あたしはあこが笑う道に行きたいと思った。

あたしとあこが手を繋いでいく未来、私が行く未来。しあわせになりたいとおもった。

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