あこ(2)

 あたしがあこの手を握った日から。
 私が私の片鱗を見つけられた日から。
 
 あたしたちは、上に登るでもなく、下るでもなく、ただおろおろと山の中腹をいったりきたりしていた。
 あたしはまだ、あこの表情を窺い知ることができなかった。
 あこはだいたい無表情で、以前より柔らかくなったけれど、それでもまだ何を考えているのか分からなかった。
 楽しいのか、
 悲しいのか、
 嬉しいのか、
 寂しいのか、
 あこの気持ちが分からないまま、あたしはどの道を進むでもなく停滞していた。

 こんなに同じ場所に留まり続けたのは久しぶりだった。
 どこかに行かなければならないと気持ちは急くのに、あたしは上を目指す以外の歩き方を知らなかった。

 登らなくていいんだろうか。
 低いところにいるあたしに、果たして価値はあるんだろうか。

 足を止めると、そんな焦りが足元から上がってくる。無理に上にいけば、またあこが泣く未来がくる。そんなことは分かってる。
 それでも、あたしは今まであこを無理やりに黙らせて、正しい道を辿ってきたのだ。脇道がどこにあるのか、見つけるすべなんて持っていなかった。

 山の登り方は分かるのに
 あこをごまかすこともできるのに

 山の楽しみ方は知らなくて
 あこを笑顔にすることもできなかった

 前に進みたくて、進めなくて、あたしは唇をかみしめた。
 ああ、また、あこが泣いてしまう。

 そんなとき、誰かが私の手を引いた。こっちに来たらと、囁いた。
 それが、あなただった。
 
 あなたが示した道は細くて、狭くて、入り組んでいた。高いところに登るわけではなかったけれど、ほんの少しの先すら見えなくて、薄い闇がどこまでも広がっていた。

「このさきに、きっと素敵な花畑があるよ」

 あなたがいう。
 あたしはつばを飲み込んだ。
 
 知っている。あたしは、この場所を知っている。
 昔、あたしがあこと遊んでいた場所。まだ、あこが笑っていたとき過ごした場所。
 道なんかなくて、名前も知らない植物が雑多に伸びていて、いつでも夕暮れのような、そんな花畑がそこにあるはずだ。
 似ているだけの場所かもしれない。だけれど、あたしはなぜか確信が持てた。
 ここは、非合理で生産性がないからと、あたしが捨てた場所。
 
 あたしはそこに入るのがどうしようもなく怖かった。そこが、まだ自分を受け入れてくれる場所なのかも分からなかった。それに、過去の自分と向き合わなくてはならないような気がした。無秩序で、筋の通っていない、脆い自分がそのなかにいた。
 見られたくない、と立ちすくんだ。

 それでも、あたしはこの停滞から抜け出したかった。あこが笑っている姿が見たかった。そんなあたしの背中を、あなたは何度も押してくれた。
歩みの遅さに呆れず、手を引いてくれた。
小さな小さな一歩を、辛抱強く待ってくれた。

そうしてあたしはようやく、先の見えない小道のなかへ入ることができたのだ。
手探りで進み、地面の感触を手のひらで感じながら行き着いた場所は、やっぱりあの場所
だった。雑多で非合理、非生産的で非効率的。だけれども柔らかくて温かい場所。
 
 そこは、夕闇に埋もれた花畑だった。あたたかな闇がすぐそこまで迫っている。
 たくさんの花が咲いているのがおぼろげに見えた。
 大きく息を吸い込むと、いいにおいがした。

「自分の足で歩いてごらん」

 あなたがいう。今まで引いてくれた手を放して、優しく背中を押した。
 あたしは恐る恐る足を踏み出した。あこの手をぎゅっと握る。あこは笑っているだろうか。怖くて見れなかった。
 薄暗さのなかを、泳ぐように進む。
 なんとなく、一輪の花の前で足が止まった。どうしてそこで止まったのか、自分でも分からない。花の形すらよく見えなかったけれど、これだ、と思った。
 掬い上げた花は、小さくて柔らかくて、薄桃色に色づいていた。
あたしは何かに導かれるように、小さな花を編んだ。どの花を選ぶか、そこに法則はなくて、あたしが美しいと思うものを雑多に選んだ。
できあがった花冠は、一見すると雑草の塊のように見えるかもしれない。
だけれど、あたしはこれが美しいと思った。

あなたは、ずっと黙って傍にいてくれた。そんなあなたに、あたしは花冠を差し出した。

この美しさを、分かってくれるだろうか。
あたしが込めた想い、汲み取ってくれるだろうか。

あなたは少し驚いた顔をした。そうして、にっこりと笑って、あたしの差し出した花を受け取ってくれた。心から、安堵した。

恐る恐るあこの顔を見る。
それまで、あこは笑っていなかった。泣いてはいない、それだけが救いだった。
だけど、あなたが花冠を受け取って、嬉しそうな微笑みを向けてくれたとき、初めてあこが笑ったのだ。小さくはあるけれど、確かな微笑だった。

あなたが、待ってくれたから。
あたしは、花を掬い上げることができた。
あなたが、受け取ってくれたから。
あたしは、花を編むことができた。

上に登りたくなったら登ればいい。
だけど、それだけがすべてじゃない。脇道にそれたっていい。遠回りをしたっていい。あたしはあたしのまま、あこと手を取り合ってここにいたらいい。

混沌とした静寂のなかで、あたしはあなたに花を贈りたいと、そう思った。

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