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音楽ライブは参加型エンタメ

 幕張メッセで行われていたYUKIのライブを観に行った。選曲も素晴らしかった上に映像等がショーとして完成されており、素晴らしいライブだった。

 しかし、観客席を見た時に少し違和感を感じてしまった。(事前に言っておくと苦情や苦言ではありません)


 2階席でライブを見ていたのだけれど、開演後、自分の周りの観客のうち立ってライブを見ているのは大体3割程度で、残りの7割の人たちは座ってライブを観ており、自分も座りながら見ていた。個人的に、座りながら見るのが好きなのでいい環境だなと思いながら序盤のライブを見ていた。

 そして何曲目だかは覚えていないけれど、盛り上がる曲のイントロが流れ、周りの人たちの何人かが立ち上がった。

 そこでふと、なぜ立ち上がるのだろうと不思議に思った。1人が立ち上がることで後ろの人も立ち上がらなければ見ることができなくなる。そういった風に他人の行動を制限してしまっていることに気づかない訳がない(と思いたい)。つまりは、そのように人に影響を与えることも厭わないほどに、立ち上がるメリットがあるということなのだろう。


 個人的に立てた仮説として、より鮮明にステージを見たいからなのかなと考え、立ち上がったうちの1人を見てみた。

 その人は2階席の一番前の席に座っており、ステージとの間に視界を遮るものは何もなさそうだし、2階席であるが故に立ち上がることで(ほんの数十センチではあるが)目とステージとの距離は遠くなる。つまりは、視界の問題ではなさそうだ。

 そして、立ち上がった人を見ていると殆どの人がサビで手を上げている。

 ということで、とりあえず手を上げるためと結論をつけてみた。そして、なぜ手を上げるのかを深堀して考えてみる。

 そもそも、いつもライブを見るたびに何で手を上げるのか不思議に思っていた。手拍子などのステージ上から煽られてする行動と違い、基本的に強制されてやっているものではないのだけれど、なぜ殆どの人が同じような行動をするのだろう。


 そこでふと、ライブに『参加している』という感覚を得るためなのかもしれないと考えた。

 そういえばライブに『参戦する』といった言葉を使ったり、地方へライブを見に行くことを『遠征』といって見せたりと、戦に向かうが如くライブを見に行くことを表現する人がいるが、それはライブに『参加している』という意識が強いことが理由なのかもしれない。


 そして気づいた。演劇やオーケストラのような鑑賞型エンタメとは違い、音楽ライブとは参加型エンタメなのだ。

 学生の頃から10年近く、平均しても月に1回以上の頻度で音楽ライブに行っていたのだけど、今更気づいてしまった。自分は、音楽ライブを”鑑賞”したかったのかもしれない。

 自分はこれまで、ライブを見に行っても、手も上げず手拍子もしないでとにかくステージを見ていた。音楽が好きで、ステージ上のアーティストの鳴らす音が好きで、それを生で聞きたいと思ってライブに行っていたのに、いつも何処か自分が蚊帳の外にいる感覚があった。それは、音楽ライブに”参加”することができていなかったせいなのだ。


 そこで改めて自分に問いかけてみたけれど、音楽ライブを”鑑賞”したいと思っても”参加”したいとは思えなかったので、一部の極めて好きなアーティスト以外のライブに行くのは辞めようと決意した。

 『好きなもの』って、理屈じゃなく感覚で好きになるものだからあまり深掘りして考えたりしないけど、冷静に客観視してみると、意外と自分の性質に合わなかったりすることもあるんだなーと思った。当たり前のことなんだけど。