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適度な距離で人に頼るということ【双極性Ⅱ型寛解の為にやったこと記録12】

※この記事は去年の12月に書いて下書きに放り込んであった記事です😅
普通にいいこと書いてると思ったのでちょっとだけ付け足して完成として、今更公開します。

近況

また少し間隔があきましたが、まだ無職です!(^^
ですが11月から転職活動は始めていて、そちらの方は順調だと思います。
11月の半ばでこの無職期間に終わらせたかったイベントをすべて終わらせたため、後は直近必須でやりたいこと、やらなくてはいけないことがなくなりました。
本格的にやることが無くなったせいか急に体調・精神共に1週間ほど崩れていたのですが、今までになく自然に人に頼ることが出来るようになって、上手く調子を戻せた気がするので、これを機に改めて感じている寛解に繋がった考え方をまとめたいと思います。

人に頼る、とは

まず軽く前提の話ですが、世間的に精神的な病気を持ってる人は「もっと人に頼れ」とよく言わてれると思います。ですが自分も親元で20代後半まで過ごした経験と現状から思うのは、物理的にではなく精神的に「頼る」のは結構難しい。
例えばご飯を作ってもらったり生活を支えてもらったりという物理的な支援は「病気だから」という理由があれば受けられても、その人が「迷惑をかけている、借りを作っている」と思っていればそれは精神的には頼れていないのではないかという話です。

どうしてそうなってしまうのか、自分の場合は「自分自身には人に助けてもらえる価値がない」=「何かを我慢して助けてくれるのだろう」という一種の思い込み、自己肯定感の低さが原因にあった気がします。

そして今、そうではなく人と人は迷惑を掛け合って生きていくもの=相手に(適度に)迷惑かけられるのも嫌じゃないと思えるから、自分の体調が良くない時は頼れる相手に遠慮なく頼ることが出来るようになりました。その辺についてこの記事では書いていこうと思います。

適度に助けてもらえる友達を作る

本題ですが、皆さんには、一人になりたくないからとかいやいやではなく継続的に付き合っている友達が複数人いるでしょうか。例えば自分から飲みに行こうとか遊びに行こうと誘ったり、暇なときに通話やLINEをするような。そして話したところで解決できない悩みを愚痴れるような。
普通にいる人はこの記事は読まなくて大丈夫です笑

私は幼少期から最近まで長らくいませんでした。割合所属コミュニティに溶け込むのは上手い方で誘われて遊びに行ったりはたまにしていましたが、いっしょにいて精神的にくつろげたり自分から積極的に遊びに行こうと誘うようなことは多分20代半ばまでほとんどなかったと思います。
多分医学的に見たらまったく根拠になってないので、これを「双極性障害の治し方」として紹介するのはどうかという気持ちがあるのですが、自分の中ではどう考えても「親しみを感じられる相手」が出来てから治りだしたという実感があるので、まぁ個人的なものだと前置きしつつ、どうやって社会人になった後に親しく付き合える友達を作ったのか、というかそういう関係を築けるようになったかを書いていきたいと思います。

ちなみに、子供向け?に科学的に宇宙や生物や社会など色々なことを説明してくれるこのチャンネルが大好きなのですが、人間の根源的な欲求として孤独を回避する=孤独な精神状態を強いストレスと感じる本能が備わっていることが説明されています(日本語字幕あります)
人はだれしも人生のうちで辛いことや厳しい現実に直面することがありますが、それでも普通の人は周囲の信頼できる人に相談したり、好きな人と遊んだりすることで発散しているのに、どうも自分にはそれが上手くできていませんでした。薄っすら誰も信用していなかったので、そんなことしても意味ないと思っていたと思います。

人の幸せを喜べる人になる

いきなり宗教か?みたいなことを書きますが、これは自分がそれが出来ずにいた頃(人の幸せな話を聞くとどんな身近な人でも嫌な気持ちになっていた)ころからずっと合理的に考えたらこうなるべき、という確信がありました。

なぜなら、自分自身の身に起きる幸せというのは量に限界があるからです。それに自分と他人を比較しだしたら、大抵は上がいるので手放しで喜べる幸せって実際にはかなり少ないと思います。
では他人の幸せはどうかというと、身近な知り合いに限っても自分よりはずっとたくさんいるし、他人の幸せをその他の人の幸せと比較する意味は無いので受け取ったまま喜ぶことができます。

これはたまたまハマって一時期スポーツを応援していた時、今までいたオタク界隈よりも一般的(?)な種類の人が周りに多くて、その人らはオタクよりも自分の生活をよく話して、それに反応する他の人たちを見ていて思いました。
これがあるべき姿だと、今はそうなれなくても、自分自身のためにこうなるべきだと。

ちなみに自分は性格的に宗教にハマることは多分難しいのですが、こういう精神性を獲得するには実際宗教が一番効果的だと思っていて、正直ハマれるものならハマりたいと思っていました。

では実際どうやったらなれるん?と言われるとなかなか難しいのですが、自分の場合は上記のように打算で、人の幸せを喜ぶことは自分の利益になると考えることに加えて、推しがまさにそれを出来る人だったのでそこを観察しつつ、まずは推しの幸せを喜ぶところから、徐々に好感を持っている周りの知り合いへと拡大していくと(祝いのメッセージを送ったり、ちょっと微妙な気持ちでもツイートにファボをするなど具体的な行動で示した)次第にそれが自分のデフォルトになっていったように思います。

即謝れる人間になる

これも何をバカな、と言われそうですが人間関係をしっかりやろうとしたら基本はこれです。もちろん突然怒り出したり失礼なことを言ったり約束を破ったりしないというところが一番大事なのですが、(迷惑かけられる側の)実体験として分かったのは「ごめんなさい」と「ありがとう」がちゃんと言えれば思ったよりリカバリーは効きます。
特に発達障害傾向を感じる人は変なプライドは捨てて相手を不快にさせたと思ったら即真摯に謝れるようにすると、どういうところが良くないなどのフィードバックをくれるタイプの人が面倒見てくれるようになる可能性があります(もちろんキャラにもよるし、理不尽だと思ったら拒否するべきですが)

前提

ここで一応前提としてですが、1,2回遊ぶ程度の友達はそれなりにいました。一つの趣味を長年やっていてわりかし上手いので作品を褒められることがあるのと、推し活動を通じていわゆる現場に一緒に行く程度の知り合いなどです。
ですが個人的な付き合いになるほど近づくことはなかったですし、それとは別に趣味を褒められるほど「自分はこれが上手くできることにしか価値がない」と思ってしまっていた部分があります(今でも無くなってないですが)

結論的には『この人は私自身を好いてくれているのだ』と信じさせてくれる人に出会ったことで、(その人以外も)他人を心から好きになることが出来るようになって、人に弱みを見せたり頼ることが出来るようになった。

という話で、直球の「理解のある彼君」メソッドに限りなく近いのですが、私の場合「その相手が自分の実生活を支えてくれるパートナー的存在ではなく、人生の一時だけ関わった友人である」という点で多少ハードルというか再現性のある話が出来るのではないかと思います。

ではそういう相手と出会うにはどうすればいいか

それこそ理解のある彼君と同じで、何かの方法で確実に手に入れられたら苦労はしないんですよね。。。

ただ私が一つこれがあったから、と思うのは
ガチャを引き続けることを止めなかった、つまり「コミュニケーションを諦めなかった」ことだと思います。

頑張って友達や恋人を作ろうというような直接的な努力は出来なかったですが、先の「『この人は私自身を好いてくれているのだ』と信じさせてくれる人」という人が声を掛けてくれたのも、趣味の創作を発表し続けていたからでした。
何かをインターネットに一方的に自分の書いたもの作ったものを公開し続ける、それだけでも一つのコミュニケーションなのです。

あとは本当に運でしかないですが、それでも「他人との関わりを諦めないこと」
それだけが、私が絶対にやった方が良いと言えることです。

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