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言葉に貴賤はない
かつて、とある御方と一緒に100日間かけて小説の書き出しだけを100本書くという『書き出し100本ノック』なるものをやっていたことがある。
といっても、実際は200字程度のSSになることが大半だったが、毎日一本、夜になると手持ちの言葉をしぼり出しながら書き出しを書いていた。
書きためた100本におよぶ書き出し集は、製本して手元にある。赤いケシの群生が、水鏡のように映る表紙がとてもお気に入りだ。いわばこれは、わたしの壮大なネタ帳なのであるが、ときどき読み返しては思うのだ。続きの書かれない言葉ほど哀れなものはないのだと。
言葉を産みっぱなしのまま放置するのは簡単だ。言葉なら、罪に問われることはないのだから。
“言葉が一流でも思いがいい加減だと届きづらいとわかったから”
これはスカパラの谷中敦氏の詩集『放浪のメモランダム』に書かれていた言葉である。
わたしは、言葉というものは万人に等しく与えられた貴賤のない表現方法だと思っている。だからこそ非常に面倒くさくて、愛おしい。実体を持たず、次の日には見知らぬ誰かのようにさえ思える、そんな気まぐれな自分の言葉に翻弄され、あるときは真空管ラジオのように日々キャッチする他人の言葉に感銘を受けたり、自分にはない巧みな言いまわしに嫉妬してしまうからこそ、そう思う。
本来ならば言葉に一流も二流も三流もないはずだ。それゆえに、言葉を紡ぎ始めるのは誰にでも出来る。しかし、紡いだ言葉にピリオドを打つのが難しい。
言葉を扱うのは簡単なようで、難しい。それでもなお、言葉に貴賤はないのだとわたしは信じたい。
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