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Thursday, 12/2/2021

 すっかり原稿作りに飽きてしまったため、のらりくらりと過ごしています。そんなこと、まったくもってしている場合ではないんですけども。気分転換にどうでもいいことを書こうと思います。数ヶ月前、宮崎駿監督のドキュメンタリーを見ました。

頑張ることを評価しちゃいけない。そのときに、慰めとか励ましは何の役にも立たない。
やりたいのと、やれるのは違う。

 監督の重たい言葉にずっと、ずっと頭を殴られ続けています。この人の言葉には迷いも、容赦もありません。弱い者にとっては、ただの放言とも受け取れるでしょう。だからこそ、あれだけ素晴らしい作品が作れるのかな。

「やりたいのと、やれるのは違う」というのは、わたし自身、身をもって痛感しているところなので言及しませんが、慰めや励ましは役に立たないのだろうか? たしかに現実的にはそうなのかもしれない。仕事に当てはめて考えるとどうもしっくりくる。どんなに励ましの言葉や慰めの言葉をかけてもらっても、結局は自分自身の問題。

 けれども同時にこうも思うのです。長距離ランナーが、果たして声援なしに孤独な道のりを走り続けることができるだろうか。わたしは、創作は走ることとよく似ていると思います。そういう理由から、ただつらいだけで、楽しいなんて気持ちはまったく湧きません。そんなふうにネガティブになりながら、いつも何かを書いたりしています。いいじゃないの、こういう人間がいても。憎しみとか苦しみとかでがしがし筆が進む人間もいるんです。

 走り続けることの苦しみは持久走だとか、マラソン大会だとかで嫌になるほど皆さんも味わっていることでしょう。でもそういうのには、ゴールが設定されているからまだいい。創作がほんとうにつらいのは、終わりが見えないことなのかもしれません。創作にもゴールがあったらいいのになとときどき思います。けれど、それを設定するのは結局自分自身なんですよね。

 走ることや歩くこと自体は、わたしのこの体ではすごく単純で、簡単なことです。それを持続させることが難しい。それでも、走り続けることや歩き続けることで生まれる感動をわたしたちは知っている。わたしはどうしたいのか、それにすがりたいのか。いまやめてしまっても、誰ひとりとして困らないこともよく知っているはずなのに。

誰しも15分間だけ有名になれるのさ

 ある映画の言葉が思い浮かびます。わたしはこの15分間を、ずっと待ち続けているのかもしれない。

 なんだか急にトム・コートネイ主演の「長距離ランナーの孤独」を観たくなりました。ところで好きなジブリ映画は「火垂るの墓」と「コクリコ坂から」と「海がきこえる」です(パヤオの作品は?)。

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